韓国はなぜかくも反日なのか(歴史的考察)

 

 

 

目次

 

はじめに

第Ⅰ章 朝鮮半島の歴史

〔Ⅰ〕古朝鮮

 (1)檀君朝鮮

 (2)箕子朝鮮

 (3)衛子朝鮮

〔Ⅱ〕漢の郡県支配と諸族の成長

〔Ⅲ〕三国時代

 (1)高句麗

 (2)百済

 (3)新羅

〔Ⅳ〕統一新羅

 (1)唐の朝貢国

 (2)姓まで中国風に変える

〔Ⅴ〕高麗

 (1)高麗の建国と中国との関係

 (2)両班官僚制度

 (3)儒教・仏教

 (4)高麗と元寇

 (5)元明王朝交替

〔Ⅵ〕朝鮮王朝

 (1)明に服属する国家形成 (「朝鮮」という国名も明の洪武帝に付けてもらった)

 (2)崇儒廃仏の国家理念 (決定的岐路・500年の停滞)

 (3)科挙と両班 (圧倒的身分制度)

 (4)ハングル (独自な文字は普及せず)

 (5)事大主義 (今も変わらぬ韓国の国民性)

 (6)小中華思想 (「日本が韓国より上」は絶対に許せない)

 

第Ⅱ章 日本と朝鮮半島の関係

〔Ⅰ〕三韓征伐 (日本人の朝鮮蔑視の淵源)

〔Ⅱ〕白村江の戦い (日本大敗北→進む古代国家建設)

 〔Ⅲ〕秀吉の朝鮮出兵 (韓国人が一番嫌いな人物・秀吉)

 〔Ⅳ〕日朝修好条規 (日本が押しつけた不平等条約)

 〔Ⅴ〕日清戦争 (史上初の中国支配からの脱却)

 〔Ⅵ〕日露戦争 (朝鮮半島の帰属を争う)

 〔Ⅶ〕日韓併合 (朝鮮半島の独立に失敗)

 

第Ⅲ章 韓国の反日

 

〔Ⅰ〕国家の正統性

 (1)日本国の正統性

 (2)朝鮮半島は一貫して中華思想(華夷秩序)の枠内で生きてきた

 (3)初の独立国家「大韓帝国」

 (4)第二次世界大戦後の朝鮮半島

 (5)韓国の正統性

 

 〔Ⅱ〕朝鮮の朱子学

 (1)中国古代の歴史と儒教の成立

 (2)儒教の教義

 (3)朱子学の成立

 (4)朝鮮の朱子学

 

〔Ⅲ〕朱子学の弊害

 (1)両班が朝鮮王国を支配した

 (2)厳しい身分制度

 (3)極端な男尊女卑

 (4)先祖崇拝と煩雑な祭祀儀礼

 (5)公的義務より家族中心主義

 (6) 経済発展を阻害した商業蔑視

 (7)歴史歪曲

  (8)朱子学一尊の排他独善性

 

 

 

 はじめに

 

20151228日、日本の岸田文雄外相と韓国の尹炳世外相は、慰安婦問題で合意した。

 

 その内容は、日本が、韓国の「元慰安婦を支援する団体」に10億円を支払う、韓国は、ソウルの日本大使館前に設置された慰安婦像に関して、「日本政府が、大使館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し、韓国政府としても、可能な対応方向について関連団体との協議を行うなどして、適切に解決されるよう努力する」とし、この問題を最終的かつ不可逆的に解決させる、とするものである。

 

朴槿恵大韓民国大統領は、「今次外相会談によって慰安婦問題に関し最終合意がなされたことを評価」するとした上で、「新しい韓日関係を築くために互いに努力していきたい」と述べた。

 

四半世紀にわたって日韓間の政治的課題として横たわり、最近では日韓関係における最大の懸念と位置づけられていた問題が、「最終的かつ不可逆的な解決」で合意したことに、「日韓関係がトンネルから抜け出す光が見えてきた」、と一般的には好意的に受けとめられた。私もこれで不毛な論争がやっとなくなると、能天気にうれしく思った。

 

 その後、ソウル日本大使館前の慰安婦像(少女像)が、一向に撤去されないばかりでなく、合意から1年後の、2016年暮れに釜山の日本総領事館前に新たに少女像が設置されたのである。さらに201737日に、韓国の労働組合組織が釜山の日本総領事館前に、日本による植民地時代に強制徴用された労働者を象徴する「強制徴用労働者像」を設置しようとしていることが報道された。

 

 私はもともと、韓国に対してよい印象を持っている。漢字や仏教の伝来、さらに百済滅亡後の朝鮮半島からの帰化人による日本文化への貢献を素直に感謝しているからである。しかし最近の日本と韓国の関係を見ていると、韓国の反日が日本の嫌韓を生み、それがまた韓国の反日を促進するといった負の連鎖反応が拡大し続けているように思える。

 

 世界に200近くもある国のなかで、古代からの交流が一番多く、一番近い国がなぜこのような後ろ向きで不毛な争いをし続けているのか、不思議でしょうがない。その疑問を自分なりに解明したいと思うようになった。

 

私は古代からの日本と韓国の関係を見ながら、現在に至る歴史から、感情的になることなく、虚心坦懐に日韓関係を見てみたいと思う。

 

 

 

第Ⅰ章 朝鮮半島の歴史

 

 

  古代朝鮮半島は、海に囲まれた日本とは異なり、北東アジアとも言うべき広い範囲で、国境線のように明確な線引きができるわけではない。朝鮮半島は現在、白頭山(中国側では長白山)の天池に源を発して東西に流れる鴨緑江・豆満江の2本の川によって、アジア大陸から区切られた地域だと認識されているが、古代においては中国東北地方(黒竜江省、吉林省、遼寧省)、華北、内モンゴリアなどを含む地域で、それぞれの地域の内部的要因と外部的要因の相互作用として、歴史が形成されてきた。

 

 この地域における古代国家の形成は、秦漢時代に本格化する中国王朝との抗争の過程で展開してきた。その中心は平壌と推定される。そこは北緯38度に位置して稲作農耕の北限にあたり、それより北では狩猟民族や遊牧民族の活動が行われてきた。ユーラシア大陸でもこの緯度の前後に古代の主要都市が発生したように、農耕民と遊牧民の境界が横断し、異質な生産物の交わるところに都市や国家が発生してきたのである。

 

 北東アジアでも古代国家の活動が早期に認められる平壌付近は、農耕、狩猟、漁労、遊牧などの異なる正業に従事する人々が交わる結節点であった。このような平壌の交通上の位置を巨視的に見れば、次のようにいえよう。日本列島において、朝鮮半島・中国東北地方に向けての出航の拠点であった博多と、中国東北地方から中国内陸部へ向かう交通の拠点である瀋陽を結んだ線上に平壌が位置していることが示すように、平壌は、北東アジアの交通路において朝鮮半島および日本列島と中国大陸を結ぶ大動脈の結節点とみることができる。

 

 北東アジアの一角に形成された朝鮮国は、このような交通上の要衝に形成された最初の国家であった。

 

〔Ⅰ〕古朝鮮

 

前漢の武帝に侵攻を受ける以前の朝鮮にできた国家で、檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛子朝鮮の三朝鮮の総称。

 

 

(1)檀君朝鮮

 

檀君朝鮮は、後世(10世紀以降か)に作られた神話であり、檀君という神話上の人物が平壌城で建国した(紀元前2333年)とされる。(朝鮮半島ではこの年を起点とする檀君紀元を定め、1961年まで公的に西暦と併用していた。一部では現在も使用されている。)

今年(2017年)は、檀君紀元4350年である。韓国でよく言われる「半万年の歴史」というのは、この神話を史実としてとらえ、中国以上の長い歴史を持つ国だと言いたいのである。

 

(2)箕子(きし)朝鮮

 

箕子朝鮮に関しても、まだ実在の確認はされていないが、「史記」には、中国戦国期の燕(遼東地方)との交易が記されており、遅くとも紀元前43世紀頃には朝鮮王を首長とする勢力が朝鮮半島北部に存在し、中国と交渉があったことは認められそうである。秦漢交代期の動乱をさけて燕・斉・趙などから多数の中国人が朝鮮付近に流入したことは、考古学の成果からも裏付けられる。

 

後に、高麗王朝から禅譲されるかたちで新しい王朝を開いた李成桂が、明の洪武帝に国号の決裁を依頼したさい、洪武帝が「朝鮮」と裁可したのは、この箕子朝鮮に由来するのである。

 

 朝鮮側としては、この国号はかつての衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮の正統性を継承する意味があり喜ばしいことであった。しかし裁可した明の洪武帝は、殷の賢人箕子が、周の武王によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような賢君になりたいという思惑をこめたものであった。

 

(3)衛子朝鮮

 

 前194年中国・燕から1000余人の配下とともに亡命してきた衛満が箕子朝鮮を駆逐して衛子朝鮮を建国した。半島南部の真番族や半島東岸の臨屯族などを支配下におさめ、紀元前195年に王倹城(平壌)を都とした。その国家の性格は、亡命中国人のほかに、土着の首長たちをも支配層に吸収して組織した連合国家であったとみられる(~紀元前108年。3代80年)。

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〔Ⅱ〕漢の郡県支配と諸族の成長

 

紀元前108年に前漢の武帝によって、衛氏朝鮮が滅ぼされると朝鮮半島の大部分は中国王朝の支配下に入った。そこで武帝は楽浪郡(平壌)・真番群(不明)・臨屯群(江陵)・玄莵群(咸興)を設置し、郡県制度を通じて直接支配を行った。

 

 

中国の郡県支配は、紀元後4世紀の初めまで約420年間続いたが、各地の諸族の抵抗にあって名実ともに直接支配と呼べるような地域と時期は限られていた。それでも楽浪郡は、中国からの漢人やその子孫が居住し、中国文化が急激に流入した。

 

〔Ⅲ〕三国時代

 

 朝鮮半島において、高句麗、百済、新羅の三国が鼎立し、激しい抗争を繰り広げていた時代をいう。日本の歴史学ではおよそ4世紀ころから7世紀ころまでを指す。

 

(1)高句麗(紀元前37 668年)

 

 漢の郡県支配との葛藤の時代に、諸族のなかで最も著しい成長を遂げたのは高句麗であった。高句麗は中国から穢貊と呼ばれる地から起こり、その活動は紀元前にさかのぼる。玄莵群の設置は、こうした高句麗の封じ込めをねらったものとみられる。高句麗は漢の郡県支配に抵抗するなかで、いち早く国家として成長をとげた。遅くとも紀元前後頃には政治的結集をなしとげ、王を中心に周辺の有力首長を組織する体制が形成されたとみられる。

 

3世紀から4世紀にかけて高句麗の国家体制は飛躍的に進展した。313年に楽浪郡・帯方郡を滅ぼし、420年に及んだ中国の郡県支配を終わらせ、半島南部に進出する足場を固めた。

 

391年に広開土王(在位391413)が即位すると、その領域を飛躍的に拡大させ、その後の発展の基礎を築いた。その子・長寿王は、427年に平壌に都を移し、半島南部を威圧した。475年には百済の王都・漢山城を陥落させ、高句麗史上最大の版図を獲得した。

 

 

版図が最大に達した476年頃の高句麗と周辺諸国

 

 

(2)百済(?~660年)

 

 伝説によれば百済は紀元前18年に建国したとされている。歴史的な建国時期に関しては、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説までさまざまな説がある。実際に国としてまとまったのは4世紀前後といわれ、王都を漢山城(ソウル)に置いた。

 

 百済の勃興は、南進してくる高句麗に対抗するなかで培われた。積極的に外交戦略を展開し、中国の晋に朝貢したり、北魏、梁に使者を送ったり、関係強化をはかるとともに、倭(日本)との連携を模索した。天理市の石上神宮の「七支刀」は百済が作製し倭王に贈与した(369年)ものであり、仏教も百済から伝来した(538年)。

 

660年、唐と新羅の連合軍により滅ぼされたが、その後百済復興運動が起こった。百済からの要請を受け入れ、大化改新直後の日本も参戦したが、白村江の戦において唐・新羅連合軍に大敗してしまった。百済難民を日本は受け入れ、それが古代国家建設に貢献することとなる。これについては、後述するつもりである。

 

(3)新羅(紀元356年~ 935年)

 

 朝鮮半島南部においては韓という種族が住んでおり三韓(馬韓・辰韓・弁韓)に分かれていた。そのうちの辰韓を母体として発展したのが新羅である。4世紀初めに建国されたが、三国のなかでは、文化的にも制度的にも最も遅れており、4世紀末には勢力を増した高句麗の影響下におかれていた。中国の各王朝、高句麗、百済という強国のなかに位置していながら、互いの利害を風見鶏のごとく利用し同盟国を乗り換えることで発展し、結果的に朝鮮半島に初めて統一国家を建設した(684年)。

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〔Ⅳ〕統一新羅(684935年)

 

7世紀新羅の金春秋(武烈王)は唐の冊封を受け、新羅国王となって百済と高句麗を滅ぼし半島を統一した。これ以後、朝鮮半島の国家は新羅であれ高麗であれ李氏朝鮮であれ全て中国皇帝の冊封体制下に入る。(冊封(さくほう)体制(たいせい):中国,歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認める(冊封)一方,宗主国対藩属国という従属的関係におくことをさす。)

 

 

新羅は当時、東アジアに於ける超大国であった唐(支那)の全面的支援を受け、圧倒的な唐の軍事力を頼りに百済・高句麗を滅ぼしたのである。そのため、唐にして見れば、百済・高句麗を滅ぼしたのは自分達、唐の功績であり、新羅は単なる「後方支援」でしかなく、新羅を含む朝鮮半島全域の支配権は唐にあるものと認識していたのである。それが証拠に、唐は新羅の事を「新羅国」では無く、唐の一地方行政地域「新羅郡」としてしか扱わず、その君主も「楽浪郡王・新羅王」の称号を以て呼んでいたのである。

 

 

これに対して、新羅は当初、朝鮮半島の支配権を巡って抵抗したが、相手は超大国の唐。到底、軍事力では勝ち目はなかった。そこで、唐の属国(唐から見れば属領)に成り下がることをのみ、独立国のあかしであった新羅独自の元号を放棄、唐の元号と法制を受け入れ、唐への臣従を誓ったのである。

 

 

姓まで中国風に変えた

 

さらに新羅は唐におもねるあまり、元号・法制だけではなく、自分達民族のアイデンティティを揺るがす一大変革を断行した。それは、従来、朴(パク)・昔(ソク)・金と言った王侯貴族にしか見られなかった一字姓を、国民全体にまで強制したのである。

 

朝鮮半島における三国時代には複数字の姓が存在していた。例えば、百済王家の姓は通常、二字の「扶余」(プヨ,ふよ 扶餘)であるし、百済王を支えた臣下には、憶礼(おくらい)・鬼室(きしつ)・黒歯(こくし)・木羅(もくら)・姐弥(さみ)・真慕(しんぼ)・阿乇(あとく)・汶休(もんく)と言った二字姓の者が名を連ねていた。

 

『日本書紀』にも、伊梨柯(いりか)・伊梨渠(いりこ)・親智(しんち)・己能(この)・久礼波(くれは)・久礼志(くれし)・須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)・微叱己(みしこ)・毛麻利(もまり)・伊叱(いし)など、たくさんの複数文字の姓が記載されている。

つまり、古代の朝鮮半島では、現代朝鮮半島人における少数派の二字姓(を含む複数字姓)が主流だったのである。

 

 

 新羅は中国風の一字姓に改める、文字通りの「強制的な創氏改名」(創姓改名)を行ったのである。現代朝鮮半島の姓は殆どが一字姓であるのは、ここから出発したのである。

 

 

 ついでながら、現在の朝鮮半島では「王」姓は非常に珍しい。高麗王朝の王室は「王」姓であったが、李朝時代に、徹底的に王朝一族を皆殺しにしたため、「王」姓の人が迫害を恐れて、「全」、「玉」、「田」などに変えたためだと言われる。改姓された字のなかには、必ず「王」の字が含まれており、王姓に対する未練がうかがわれる。

 

 

〔Ⅴ〕高麗(9361392年)

 

(1)高麗の建国と中国との関係

 

918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。王健は即位して太祖(918 - 943)を名乗った。

 

935年、新羅の最後の敬順王は、王健に禅譲し新羅は血を流さずに滅亡した。こうして56992年におよぶ新羅王朝は姿を消した。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。

 

 

907年、7世紀から続いていた世界的大帝国であった唐が滅亡した。その後、華北にはほぼ100年間にわたり、後梁、後唐、後晋、後漢、後周という5つの王朝が興亡し、華中・華南には前蜀など10の王朝が併存対立した。これを中国史では五代十国という。これらの中から、中国大陸南部には宋(北宋9601127年、南宋11271279年)が周辺の国々を併呑して大帝国を建設し、北方には、契丹・遼(9161125年)と、女真・金(11151234年)の大帝国があり、南北2つの勢力が大きな力を持っていた。

 

これらの国々の激しい覇権争い、更には朝鮮半島内でも衰えたとはいえ、新羅の勢力も残っているなかで、高麗は半島の経営を担うことになったのである。

 

 高麗は成立まもなく五代の後梁と通行し、933年には後唐の冊封を受け、王建は高麗国王となった。その後も、高麗国王は五代各国から冊封を受けて北東アジアの中で国際的な地位を確保していった。五代最後の王朝後周の衰退を見て、第4代国王光宗(在位949975年)は、宋の冊封を受け、宋を中心とする国際秩序の一員となったのである。

 

(2)両班(やんばん)官僚制度

 

 958年、高麗は中国の官僚登用試験である科挙を導入した。その合格者は、文官を(むん)(ばん)、武官を()(ばん)といい、その両者をあわせ、官職についている人を両班といった。この制度は後の朝鮮王国にも引き継がれ、現在の朝鮮半島にも大きな影響を及ぼしている。

 

 高麗では科挙による官僚登用試験が行われたとはいっても、豪族の子弟は試験なしで官僚に任用する蔭叙の制度により、世襲で特権的な地位を占めていた。これらの門閥官僚は相互に強く結びつき、貴族化し、国王権力に対峙するようになった。

 

(3)儒教・仏教

 

 高麗は、中央集権国家を構築するために儒教を重視した。儒教を基礎とした科挙が官僚になるための正統的な道と認識され、徳治政治がめざされた。最高学府として国子監を開設し、社会への儒教浸透もはかられた。儒教は朝鮮に深く根を下ろし、両班と共に長くその社会を規制する理念となっていった。

 

 一方で国家鎮護を唱える仏教が王室や門閥貴族・両班の信仰を集め、一大勢力になった。高麗建国初期から豪族を中心に禅思想が広まっていたが、宋から天台宗も導入された。国家は仏教を保護し、仏教行事は国家でも重要なものとして執り行われた。高麗版大蔵経が刊行され、日本からもそれを求めて多数の僧侶が訪れた。

 

(4)高麗と元寇

 

 12世紀末になると華中から北東アジアの覇権を握っていた金の衰退が顕著になった。それに取って代わるかたちで、モンゴリアの地ではチンギス・カンがモンゴルの建国を宣言した(1206年)。モンゴルの圧力は高麗にも及び、チンギスを継いだオゴディ(在位122941年)が即位してから約30年間は、モンゴル軍の侵入に悩み続けることになった。モンゴル撃退を祈願して8万枚の版木に雕造された「高麗大蔵経」は世界遺産に登録され、海印寺に保存されている。

 

 チンギスの孫クビライ(121594年)の代になると、都を現在の北京に移し、国号を元と改め、中国史上はじめて、東北部から華南・チベット高原に至る中国のほぼ全域を単一国家として支配するようになる。

 

 1270年、高麗の元宗は、元帝国への服属を決定し、その証として世子(後の忠烈王)がクビライの娘と結婚しその()()娘婿)った。以降、歴代高麗王王室王女結婚駙馬国家という高い地位をもつことになる。当時、元は南宋の討伐と日本への遠征という大事業をひかえており、高麗との関係を安定化させることを重視したものである。それは必然的に高麗の政治は元の強い影響下に置かれることになり、日本への遠征(文永の役、弘安の役)において兵士の動員、軍船建造、食糧調達などの思い負担がのしかかることになったのである。

 

(5)元明王朝交替

 

 14世紀になると、世界的な気候不順が続き、地震などの天災とあいまって中国では大飢饉が起き、社会不安が広がっていた。王室の内紛もあって、元の支配は大きくゆらいでいった。

 

 こうした中、1351年浄土教系の白蓮教徒を母体とする紅巾軍が反乱を起こした。反乱軍中から朱元璋(132898年)が頭角を現し、1368年に明を建国した。

 

 高麗王の恭愍王は、1269年に元との関係を完全に断絶し、明に朝貢して冊封を受けることにした。しかし1374年に王は親元派によって暗殺され、その後は元と明に両属する政策がとられた。

 

 

 

 

〔Ⅵ〕朝鮮王朝13921910年)

 

(1)  明に服属する国家形成

 

 元の勢力が衰退するなか、1392年李成桂は、高麗最後の国王恭譲王から位を譲られるかたち(禅譲)で高麗王に即位した。彼は国際的な正統性を得るために、ただちに明に使節を送り、明の洪武帝から「権知高麗国事」という地位を認められた。それは「国王」ではなく、「仮に高麗の政治を預かる」という意味である。

 

「朝鮮」という国名も明の洪武帝に付けてもらった

 

それとともに洪武帝から国号を変更するよう命じられた。李成桂は重臣たちと協議し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し洪武帝の裁可を仰いだ。洪武帝は、前漢の武帝に滅ぼされた古代王朝「衛子朝鮮」にちなみ、「朝鮮」を選んだ。

 

中国の冊封体制においては、二文字の国号は一文字の国号より格が低いとされていた。中国では秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清などすべて一文字の国号であるのに対し、周辺国は新羅、百済、高句麗、高麗、渤海、朝鮮、安南、日本などのように二文字の国号である(高句麗の高は尊称である)。このように、これから500年続く朝鮮王朝は、中国の明、続いて清に完全に服属するかたちでスタートしたのである。

 

そして第3代太宗(在位140018年)の時代になって、ようやく懸案であった明皇帝の冊封を受けて「朝鮮国王」となり、国際的正統性を手に入れたのである。

 

(2)  崇儒排仏の国家理念(現在の朝鮮半島を作り上げた元凶)

 

李氏朝鮮は建国理念に「崇儒排仏」を置いた。その名の通り「儒教を重んじ、仏教を排除する」ということである。理由としては、前王朝である高麗の建国理念が仏教であり、歴代の国王が仏教を特に重んじるあまり、仏事に傾倒して国政を顧みない者が続出たからである。本来高麗王朝は、儒教を軽んじていたわけではなく、太祖・王健は「仏教と儒教を互いに補完する存在」と見なし儒教を重んじていた。高麗末には王権と癒着した仏教勢力を排除すべく朱子学派が台頭し、そのパワーは高麗打倒の源になりそのまま李氏朝鮮に受け継がれたのである。

 

朱子学の本来の思想は「仁義礼智信」や「君臣の道」「夫婦の道」「父子の道」「兄弟の道」「朋友の道」などの人間関係を説いた道徳の学門のはずである。現実の中国社会や李氏朝鮮では単に本に書いてあるだけで、権力者に都合のいいように利用された。両班たちが朱子学の正統性を争い、朱子学の解釈権を握り、科挙の試験官を自派で占める。合格者は官僚になって、学閥は権力を手に入れる。儒者の塾は棍棒で武装し、敵方の打ち壊しまでした。朝鮮史では、これを「党争」という。こうした不毛の闘争が繰り広げられていたのである。

 

その一方で、一般民衆に対しては、人為強制的で直接身体に暴力を加えるかたちで、朱子学の浸透を図った。ある日突然、捕縛吏がやってきて、親の3年の喪に服していないと言って棍棒で打ちすえる。よい墓地を探そうと骨を安置しておけば、不葬者として一族絶島送りになる。良婦二夫にまみえずという節婦道徳を強制され、前朝の風習どおりに夫の喪をといて再嫁していた女性を捕らえ、拷問する。寡婦の再婚はこの後、1894年に改革がおこなわれるまでかなわなかったのである。さらに、商人卑賎視、商業抑圧のイデオロギーとその実践の被害をまともに蒙り、ほとんど自給自足に近い極貧の経済のなかで500年の生活を送らなければならなかったのである。

 

(3)科挙と両班(やんばん

)

 官僚としての両班は高麗に始まり、朝鮮王朝では官職に就くと土地が与えられ、それが世襲されるようになり、政治的にも経済的にも支配者階級を形成した。村落社会での警察権も付与され、文化面でも知識人として郷村の指導的役割を担ったのである。

 官僚の登用は高麗以来、中国の科挙を取り入れていたが、科挙に合格するものは両班出身者が多く、また科挙に合格できなくとも、彼らは地主として地方で支配的地位を維持できた。

 

 朝鮮王朝時代は厳しい身分制社会であり、両班が支配者階級に位置し、その下に、中人(都市に住み医師、法律、貿易など実務的な職種を世襲する階級)があり、その下の農工商の平民は「常民(サンミン)」と言われた。その大部分は農民で自営農民と両班の土地の小作農とがあった。また最下層に公奴婢と私奴婢の賎民がいて、私奴婢は売買された。また朝鮮王朝は儒学を国の教えとし、高麗時代に勢力を持ちすぎた仏教は排除されたので、僧侶は賎民身分であるとされた。

 

 司馬遼太郎は『街道をゆく2 韓(から)のくに紀行』で次のような観察をしている。

 

「李朝のころ、ソウルにおける両班とはつまり大官たちである。在郷の両班は日本でいう郷士のようなものだが、郷士よりも権威がある。特権階級であるとともに、李朝のころは朝鮮人民を儒教で飼いならしてしまうための、『儒教の神父』のような役割をもっていたということができるのではないか。」

 

 司馬遼太郎は、漢民族の古代社会を原型として生まれた儒教が、李朝時代に、言語も人種も歴史も異なる朝鮮に導入され、その結果として朝鮮人の観念先行癖やそれがための空論好きという傾向にゆがめられたと観察し、その「ゆがめ役」が在郷の両班階級であった考えた。「人民を儒教へ儒教へと飼いならしていく調教師として、在郷の両班は必要であったのであろう。その意味では日本の武士階級とはまったくちがうものである。」<司馬遼太郎『街道をゆく2 韓くに紀行』1978 p.158-159 朝日新聞社>

 

 

(4)ハングル

 

朝鮮半島では15世紀半ばまで、自民族の言語である朝鮮語を表記する固有の文字を持たず、知識層は漢字を使用していた。第4代王の世宗は、朝鮮固有の文字の創製を積極的に推し進め、1446年に「訓民正音」の名で公布した。「民を訓(おし)える正しい音」の意である。

 

 

しかし、その事業は当初から事大主義的な保守派の反発を受けた。世宗が設立した諮問機関の集賢殿副提学だった崔萬理は1444年に反対意見を次のように上奏した。

 

 

 1、    わが国は中国を宗主国として奉じておりますので、新しい文字を創れば、中国に対する親意を犯すことになります。

 

 2、  中国の影響下にある諸国では、民族の特性や日常語が異なっているというだけで、漢文とちがった文字を創ったことはありません。蒙古や日本、そしてチベットに固有文字があるといいますが、かれらはみな野蛮人として蔑視されております。こうしたなかで、わが国が美徳を捨てるということは、われわれの文化を退歩させるものでありましょう。

 

 3、 そもそも吏読は、漢字をよく読めないものたちのために創られたものであります。それは漢字の音や意味を借用して国語を表記するものでありますから、漢字と完全に分離させることはできません。しかし、創制される文字は漢字とは全然関係ありません。新字の創制は学問の発展に損失をもたらすだけでなく、政治をも遅らせます。(引用前掲書)

 

 

 ハングルがせっかく開発されたのに相変わらず公文書は漢語で書かれていた。朝鮮人の支那へ対する異常なまでの奴隷根性・事大主義(後述)から来るもので、両班や重臣から猛反対され、一般には普及しなかったのである。

 

 

 世宗が苦心して作ったこのハングルであるが、第10代国王・燕山君により正音庁などに所蔵されているハングル文書はことごとく焼き払われ、更に1504年学問の府である成均館が遊蕩の場とされハングルの授業と学習が禁止されたのである。次の中宗は1506年に即位するとすぐさまハングルは完全に廃止されてしまったのである。両班が宗主国の支那の文明にかぶれ、なんと自国の朝鮮文化を蔑んでいたのである。

 

 

1910年の日韓併合後に朝鮮総督府は半島の近代化に努力し、国語教育にも力を注ぐようになる。実は19世紀末から福沢諭吉の提案により漢字・ハングル混合の文章形体を使用し始めたのである。ちなみに当時の韓国人の識字率は6%程と言われている。

 

 初めて漢字・ハングルの混合文が使用されたのが明治19年の「韓城週報」という新聞で、その後は学校教育に組み込まれて一般に普及した。日本が韓国の文化を保護していたのであり、すなわち朝鮮人が言う「日帝36年の支配で韓国国語が奪われた」というのは妄言に過ぎないのである。

 

 戦後に韓国では漢字の非効率性、非大衆性が指摘されハングル国語純化運動が推進された。

 

 ●1948(昭和23)年…李承晩大統領による「ハングル専用に関する法律」が制定され、暫時的に  漢字を撤廃する路線を決定。

 

 ●1959(昭和34)年…臨時漢字制限法令が発布され、昭和40年からは公文書に一切の漢字使用を禁止。

 

 ●1967(昭和42)年…朴 正煕大統領の下で「漢字廃止五年計画」を指示

 

 ●1970(昭和45)年以降、総理大臣訓令で漢字使用が全面禁止

 

 ハングルは500年ぶりに復活したが、漢字を廃止した為に、同音異義語の氾濫が起き、抽象度が高い概念語の理解力と利用率の低下、韓語の言語伝達能力の低下を招き、世界で朝鮮人は最も読書率の低い国民になってしまったのである。

 

 

 

(5)事大主義(今も変わらぬ韓国の国民性)

 

事大主義とは、「小」が「大」に(つか)える、つまり、強い勢力には付き従うという行動様式であり、語源は『孟子』の「以小事大」である。国語辞典によれば、「はっきりした自分の主義、定見がなく、ただ勢力の強いものにつき従っていく」という意味である。

 

事大主義とは朝鮮の伝統的外交政策だ。この大というのはむろん中国のことである。つまり中国は韓国の上位にある国だったから、そこから侵略されても、ある程度仕方がないとあきらめがある。しかし、日本は韓国より下位の国だ、だから侵略されると腹が立つ。上司になぐられても我慢できるが、家来になぐられると腹が立つ、という心理だ。

 

 朝鮮は、中国に貢ぎ物をささげる朝貢国として存続してきた。大国に事える事大主義の伝統が抜きがたくある。日本が近代化に懸命に汗を流しているころも、官僚らは惰眠をむさぼり、経済も軍事力も衰亡していた。その朝鮮を国家として独立させ、西洋の進出に備えようというのが日本の姿勢だった。

 

 朝鮮半島の歴代王朝は、漢族中華王朝だけでなく周辺の非漢民族王朝に対しても「事大外交」を続けてきた。今風の言葉で言い換えれば、新羅・高麗・李朝など朝鮮半島に生まれた王朝の多くは、漢族系、非漢族系を問わず、周辺の強大国家に対し「事大」して、自国の安全保障を確保してきたということである。

 

つねに変わる事大先

 

 事大主義が行動様式であれば、弱者の付き従うべき強者がつねに一定とは限らない。そもそも定見がないのだから、定義上も、弱者は事大する先をときどきの状況に応じ、より強い相手に変えていったのだ。

 

 実際に歴史を振り返れば、朝鮮半島の事大主義の相手は必ずしも漢族中華王朝だけではなかった。たとえば紀元前108年に漢王朝に挑戦した衛氏朝鮮は漢の武帝に滅ぼされ、それから約400年間、朝鮮半島の一部はいわゆる「漢四郡」により直轄支配されている。

 

 高句麗は1世紀に後漢、4世紀には非漢族の鮮卑族が建国した前燕、前燕を滅ぼしたチベット系といわれるテイ族の前秦に、それぞれ冊封された。また、百済は唐に、新羅も北斉、陳、隋、唐に朝貢し、それぞれ冊封を受けている。

 

 10世紀に朝鮮半島を統一した高麗は、漢族の宋、明だけでなく、契丹系の遼、女真系の金、モンゴル系の元にも朝貢し、それぞれ冊封を受けた。朝鮮王国も漢族の明、女真族の清と冊封関係を維持した。朝鮮王国が清の冊封体制から離脱したのは、1894年の日清戦争後のことである。

 

 下関条約締結後、朝鮮半島では1897年に大韓帝国として独立したが、1910年には全土が日本に併合され、第二次大戦後には大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分裂する。伝統的な東アジアの冊封関係ではないが、20世紀以降の朝鮮半島が日本、米国、中国の強い影響下にあったことは間違いない。

 

 いかに安全保障を確保するためのやむをえざる措置とはいえ、朝鮮王国末期の高宗や閔妃が事大先を次々に変えた行動はあまりに場当たり的な対応であった。韓国の朴槿惠大統領の父親である朴正熙元大統領は生前、「民族の悪い遺産」の筆頭として事大主義を挙げ、その改革を真剣に模索していたという。

 

 こうみてくると、コリア半島の対中華事大主義は中華に対する「憧れ」を示すと同時に、中華王朝に対する「劣等意識」を反映したものでもあったことが理解できる。しかし、この「事大主義」に象徴される対中華「劣等感」は、じつは対中華「優越感」の裏返しでもあった。それを理解するための概念が「小中華思想」である。

 

 

 

(6)小中華思想(「日本が韓国より上」は絶対に許せない)

 

 「事大主義」と同様、韓国を理解するうえで非常に重要な概念が「小中華思想」だ。この二つの概念は一見相反するようで、じつは「コンプレックス」という同じコインの表裏である。この醜い劣等感と優越感の塊こそが、朝鮮人の魂の叫びなのかもしれない。

 

 小中華とは、中華文明圏のなかで、非漢族的な政治体制と言語を維持した勢力が、自らを中華王朝(大中華)に匹敵する文明国であって、中華の一部をなすもの(小中華)と考える一種の文化的優越主義思想である。

 

 朝鮮半島の歴代王朝の多く、とくに朝鮮王国は伝統的な「華夷秩序」を尊重した。表面的には中華王朝に事大する臣下という屈辱的地位に甘んじながらも、内心は自らを漢族中華と並ぶ文明国家と位置づけ、精神的に優越した地位から漢族中華以外の周辺国家を見下していたのである。

 

 ところが17世紀に入り、その朝鮮王国が拠り所としていた明王朝が滅亡してしまう。しかもよりによって、これまで朝鮮王国が見下していたマンジュ(満州)地方の女真族が明を圧倒し、中華に征服王朝を樹立したのだ。当時の朝鮮王国の儒者たちにとっては青天の霹靂であろう。

 

 それまで夷狄だ、禽獣だと蔑んできたマンジュの女真族には中華を継承する資格などなく、朝鮮王国こそが中華文明の継承者だと彼らが考えたのも当然かもしれない。一方、実際には軍事的に清朝に挑戦することは不可能であり、朝鮮王国の仁祖(在位162349年)は清への抵抗を試みたがかなわず、ヌルハチの後を継いだホンタイジ(在位162643年)の前で三跪九(さんききゅう)叩頭(こうこうとう)という屈辱的強要れ、臣従を誓わざるをえなかったのであ

 

 夷狄とは文明化しない、すなわち儒教化しない野蛮人であり、禽獣とは人間ではなく獣に等しい存在をいう。17世紀以降、朝鮮半島の指導者たちは女真系の清を徹底的に蔑む一方で、事大主義に基づいて、その夷狄・禽獣に朝貢を行なって冊封関係に入るという矛盾した世界観と行動様式を維持せざるをえなかった。

 

 この屈折したコンプレックスの塊とも思える朝鮮半島の住民の民族性は、朝鮮王国以降、事大主義という劣等感と小中華思想という優越感を、心中で巧みに均衡させることによって維持されてきたのではないだろうか。

 

 

 

第Ⅱ章 日本と朝鮮半島の関係

 

〔Ⅰ〕三韓征伐(朝鮮蔑視の淵源)

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『日本書紀』に記載されている、仲哀天皇の后で応神天皇の母・神功皇后が行ったとされる新羅出兵を指す。神功皇后が海を渡って新羅を攻めた。新羅は戦わずして降伏し、朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。

 

 

戦前には国定教科書にも書かれていた。敗戦によって皇国史観の歴史教育はすべて排除されたが、そのなかでも真っ先に排除されたのが、この神功皇后の事跡である。戦後の教育を受けた私は全く知らなかった。

 

 

三韓征伐は豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の大義名分(朝鮮は三韓征伐以来、日本の属国であり支配する権利がある)として積極的に用いられた。江戸時代に入ると山鹿素行、林子平、本居宣長、平田篤胤などの国学研究により、三韓征伐、およびそれを大義名分とした文禄・慶長の役を肯定的にとらえるようになった。幕末の吉田松陰 (1830-1859)は『孟子余話』の中で「皇朝にて神后の三韓を征し、時宗の 蒙古を激し、 秀吉の朝鮮を伐つ如き、豪傑と云うべし」と述べている。

 

 

この傾向は明治時代以降も続き、征韓論が台頭したとき、そして実際に大韓帝国を併合する際(韓国併合)や、日鮮同祖論が生まれて外地における同化政策(皇民化教育など)が進められるようになったときも、その思想的背景の一つとなった。また、皇国史観の下、『記紀』の記述に疑義を呈することはタブー視され、神功皇后の存在も史実とされた。

 

 

津田左右吉は著書『日本古典の研究』で、神功皇后伝説は後世に付け足されたものが非常に多く歴史的事実を語っていないと述べた。新羅征討については「事実の記録または伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられた頃に、物語として構想せられたものらしい」と分析した。その上で伝説の成立時期を6世紀の継体朝や欽明朝とした。このような津田の著書は、当時、皇国史観に害があるとて問題になり、発禁処分になっている。

 

 

三韓征伐伝説の成立と大和朝廷の対外情勢

 

説話が記載されている『日本書紀』の信頼性について『日本書紀』の朝鮮関係資料には混乱偽造があると考えられているため、実に様々な意見が提出されている。

 

 

直木孝次郎は三韓征伐伝説の成立した背景について、日本は白村江で大敗した後、新羅から先進的な文化を学んでいたが、その一方で唐をも破って朝鮮を統一した新羅に相当な危機感を持っていた。こうした危機感から発生したナショナリズムが『日本書紀』編纂の時に形となって表れたと指摘する。新羅打倒について6世紀以来、朝廷内部に存した激しい願望が原動力となって、一つの華々しい新羅征討の物語にまとめあげられたものだと指摘している。また、単に願望だけではなく、こうした物語の成立は、日本による新羅支配の正当性を根拠づけるためにも、征討に際して出征する将士の士気を鼓舞するためにも、実際上必要だと指摘した。対新羅関係の険悪となった推古朝および斉明・天智朝の現実の要求が、こうした物語の形成を促進したものと推測している。

 

 

上垣外憲一は、大和の権威を高めるために『日本書紀』が編纂されたのは周知の事実だが特に朝鮮半島関係の造作は著しいと指摘している。その背景として『日本書紀』の編纂が白村江の戦いで新羅に敗れてから間もないため、言葉の上だけでも朝鮮半島に威張りたいという心理があったと指摘する。

 

 

山内弘一は大和朝廷が中国から導入した自身を中心とし周辺国を蔑む天下的世界認識や華夷思想によって朝鮮半島の新羅を「蕃国」と位置づけたが、このような天下的世界認識は中華文明を同様に受容した新羅にも存在するため、所詮は主観的な認識の次元だと指摘する。

 

 

鈴木英夫は『日本書紀』編纂時に白村江の敗戦を契機とする8世紀代律令国家の新羅「蕃国」視によって、「在安羅諸倭臣」は百済王の統制に服し、倭王権の派遣軍は百済の「傭兵」的性格を帯びていたという事実が誇張・拡大されて「任那日本府」の存在や倭王権の「官家」たる百済・「任那」の従属を核とする内容の史的構想が成立したと指摘する。 

 

 

「三韓征伐」の影響

 

『古事記』や『日本書紀』に見える神功皇后の三韓征伐条は、 歴史的事実 を根拠に書かれた記録と言うより神話的に構成された物語であるが、それが日本人の 対韓認識の中に後世まで長く受け継がれ、 動かしがたい伝統を造っていたと言うことができる。

 

後代の日本人は『古事記』や『日本書紀』に書かれている三韓征伐説をそのまま歴史的な事実として受け入れ、古代日本と三韓との関係を支配と被支配の関係として位置づけてしまった。ここから朝鮮人に対する優越意識や蔑視感を抱くことになった。

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〔Ⅱ〕白村江の戦い

 

 

 

 

倭国と百済の同盟

 

先に「歴史」の項で見たように、倭国と百済の関係は、倭国が国家の形を整える以前から行われており、天理市の石上神宮の「七支刀」は百済が作製し倭王に贈与した(369年)ものである。

 

 

百済の第26代の聖王(聖明王)(在位:523 554年)は、倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から、百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。

 

 

一方、新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。そこで高句麗と争っていた唐は、新羅と同盟を結ぶことにより高句麗を攻めることにした。この時代の朝鮮半島は遠交近攻による「百済―高句麗」(麗済同盟)と「新羅―唐」(唐羅同盟)の対立となり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となった。

 

 

百済滅亡

 

660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した。

 

 

倭国には百済の王子が人質としていた

 

唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之、僧道琛(どうちん)などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定した。

 

当時倭国には、百済王豊璋(ほうしょう)が人質として滞在していた。人質になった経緯ははっきりしないが、『日本書紀』には孝徳天皇の650215日、造営途中の難波宮での儀式に豊璋が出席している。豊璋は日本と百済の同盟を担保する人質ではあったが、倭国側は太安万侶の一族多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど、待遇は賓客扱いであり決して悪くはなかった。

 

 

(はく)村江(すきのえ)の戦い

 

当時、倭国の実権を掌握していた中大兄皇子(後の天智天皇)は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することを決定、都を筑紫朝倉宮に移動させた。6625月、倭国は豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津が率いる兵5000と軍船170艘を添えて百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれた。6636月、豊璋は鬼室福信を殺害した。これにより百済復興軍は著しく弱体化し、唐・新羅軍の侵攻を招くことになった。

 

 

豊璋は周留城に籠城して倭国の援軍を待ったが、813日、城兵を見捨てて脱出し、倭国の援軍に合流した。やがて唐本国から劉仁軌率いる7000名の救援部隊が到着し、82728日の両日、倭国水軍と白村江(韓国では白江、白馬江ともいう)で衝突した。その結果、倭国・百済連合軍が大敗した。これが白村江の戦いである。豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたが、その高句麗も内紛につけ込まれて668年に唐に滅ぼされた。豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、高句麗王の宝蔵王らは許されて唐の官爵を授けられたが、豊璋は許されず、嶺南地方に流刑されたとも伝えられる。

 

 

倭国は大化改新直後であった

 

厩戸王(聖徳太子)死後、豪族・蘇我氏の権力が天皇家を上回るほどに強くなっていた。蘇我蝦夷(そがのえみし)は大臣として権力をふるい、皇極天皇の時になると、聖徳太子の息子である(やま)(しろの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)を攻め滅ぼし、蝦夷の息子・蘇我入鹿(そがのいるか)が実権を掌握していた。

 

そんな蘇我氏の天下をこころよく思わなかった人たちがいた。唐から帰国した留学生や学問僧、また彼らから最新の政治技術を学んだ者からは、国家体制を整備し、その中に諸豪族を編成することによって、官僚的な中央集権国家を建設し、権力集中をはかろうとする動きが起こった。その代表的な人物が、後の天智天皇こと中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、後の藤原鎌足こと中臣鎌足(なかとみのかまたり)であ。彼らが中心となり、645年、蘇我入鹿を謀殺し、蘇我蝦夷は自殺に追い込まれた。

 

蘇我本宗家を排除し、新たに即位した孝徳天皇は、翌大化2年(646年)正月1日に政治の方針を示した。これが改新の詔であり、「公地公民」「国郡制度」「班田収授法」「租庸調の税制」などが定められた。

 

 さらに同年、中大兄皇子はついに即位する(天智天皇)。さらに、これだけでは安心できない天智天皇は、現在の福岡市の南に大野城と、長い城壁である水城(みずき)を築城し、ここに常駐の軍隊である防人(さきもり)を配置(兵士は主に関東から徴発)。また、この頃に大宰府(だざいふ)と呼ばれる九州における大和政権の政庁を本格的に整備したのである。天智天皇が一番恐れていたのは、唐が日本に攻めこんでくることであった。

 

 唐は、百済を倒したからといって、朝鮮半島には、まだ高句麗が残っている。唐―新羅にしたら高句麗を攻略する方が先決で、日本に攻め入るほどの余力はなかったのである。

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〔Ⅲ〕秀吉の朝鮮出兵  (文禄の役1593年、慶長の役1597年)

 

 

秀吉の朝鮮出兵の理由には諸説があり、真相ははっきりしないが、最終目標が大陸の明を征服し、天竺(インド)まで支配下に置こうという壮大なものであった。

 

 

欧州列強に匹敵する戦力を有した日本

 

この当時、ポルトガル、スペインは中南米やアフリカに広大な植民地を築き、イギリスやオランダも北米やアジアに進出する寸前であった。世界の8割を手中に収めていたといわれるスペインの当時の人口は約1050万人、東インド会社を設立してアジアの植民地化に乗り出すイギリスの人口は625万人、オランダに至っては150万人しかいなかったと推測されている。

 

 

一方、同じ時期の日本の人口は2200万人に達していたと考えられている。人口的にはヨーロッパの大国にひけをとらないどころかそれを上回るものだったのである。さらに、応仁の乱以来、長い戦乱に明け暮れていた日本には、200万人の武士が存在していた。これは定数100万人といわれる明軍の倍に当たる。しかも、明軍がこれだけの兵を擁しているのは、長い国境線を周辺民族の侵入から守るためであり、朝鮮に日本軍が上陸したからといって、大軍を差し向けられる状態にはなかったのである。事実、明軍は文禄の役では4万人、慶長の役でも8万人程度しか朝鮮半島に派遣できなかったのである。

 

 

一方、秀吉の軍勢は文禄の役では158700を数えていた。ここから対馬で指揮をとった宇喜多秀家軍の1万や、直接戦闘に加わらない補給や設営の人数を除いても、約半数の8万人程度の実戦部隊がいたであろうと推測される。

 

 

しかも、当時の日本軍は鉄砲、長弓、長槍での集団戦闘を経験した世界屈指の精強さを誇っていた。戦国末期に日本全体にあった鉄砲の数は50万丁と言われているが、これは世界一の鉄砲保有数であった。また、鉄砲戦術自体もヨーロッパとは異なった発展を遂げていた。日本の鉄砲は、ヨーロッパから伝わった滑腔式の銃身から球形の弾丸を発射するマスケット銃を母体としていた。マスケット銃は命中精度が悪いために、ヨーロッパでは長槍部隊が進撃する際に、随伴する小銃部隊が一斉射撃をして敵陣を乱し、長槍の突撃を補助するというような運用がなされていた。小銃で狙撃して敵を倒すのではなく、弾幕を張って敵陣に隙を作るという戦術だったのである。

 

 

ところが、日本では鉄砲に弓矢と同じく狙撃性能を求めた結果、銃手の熟練によって狙撃銃として運用が可能になっていた。火縄銃の有効射程は約200メートル、敵に致命傷を負わせる実効射程は100メートルといわれているので、和弓や洋弓をしのぐ性能に達していたのである。また、こうした熟練の鉄砲足軽が装備したのは中筒と呼ばれる中口径の火縄銃であったが、弾丸の直径約16ミリ、重量6匁(22グラム)、初速480/sという性能は、近距離では44マグナム拳銃弾をしのぎ、散弾銃のスラッグ弾並みの破壊力を有していたと考えられる。

 

 

これに対する朝鮮軍は、軍隊の叛乱を恐れたことから常備軍は少数にとどめ、その目的も北方の騎馬民族や沿海の倭寇を撃退するのが主であった。そのため、騎馬民族に対しては要塞、倭寇に対しては軍船を用い、装備した大砲によって撃退するのを主目的にしていたのである。文禄の役で緒戦から日本軍が快進撃を続けたのは、こういう戦術思想の違いが大きく影響していたのである。陸上の野戦では驚異的な強さを発揮した日本軍が、海戦になると李舜臣の率いる朝鮮水軍に撃破されたのもそのためである。

 

 

スペインの世界征服に対する恐怖

 

いずれにしても、当時の日本の兵力はアジアでもトップクラスであり、条件さえ整えば明や天竺を制覇することもまんざら夢物語ではなかったのである。また、このアジア大陸制覇は豊臣秀吉の思いつきではなく、世界情勢に明るかった織田信長の構想であり、秀吉はそれを実行に移しただけだとする説もある。老いた秀吉の考えと思うと無謀にみえる計画も、若き信長の発想と思えばまた様相が変わってくるのではないだろうか。信長がアジアに進出しようと考えたとすると、その背景にあるのはスペインの世界征服に対する危機感だったのではないか。

 

 

この当時、スペインはヨーロッパから、アメリカ、アフリカ、アジアにまでその版図を拡大し、世界の大部分を掌中に収めていました。アジアでヨーロッパ列強の影響下になかったのは、日本と明とその属国だけという状態だったのである。もしもスペインが明に進出してそれを支配するようなことがあれば、日本にとっては大きな脅威となったことであろう。

 

 

当時の日本人ならば、モンゴル帝国が朝鮮半島の高麗王国を先兵として九州地方に攻め入って来た元寇を想起したに違いない。中国大陸を支配する王朝が、朝鮮の兵力を動員して九州を攻撃してくるというのは絵空事ではなかったのである。それならば、逆に朝鮮半島の兵を使って中国の王朝を攻撃することも可能ではないか、と信長が考えたとしても不自然ではない。そして、信長の忠実な模倣者であった秀吉もまたそう考えた可能性がないとはいえまい。事実、秀吉はスペインと結びついたキリスト教の布教を禁止するバテレン追放令を出しているのである。

 

 

この欧州列強によるアジア支配と、その脅威から日本を守るためとする朝鮮半島、中国大陸進出は、徳川幕府による300年の鎖国を経て、明治から昭和にかけてくり返されることになるわけであるが、これは地政学的な事情というべきなのかもしれない。

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〔Ⅳ〕日朝修好条規(朝鮮王国の開国)

 

 

明治政府の征韓論

 

 

 朝鮮は日本とは古代から交流ある国であり、江戸時代には将軍が変わるたびに朝鮮通信使を送って来てよしみを結んでいた。また鎖国政策をとっていた朝鮮が、宗主国である清を除いて唯一交易をしていたのが日本の対馬藩である。

 

 日本から見て朝鮮半島の重要性は、その地政学的位置から、例えば「元寇」に代表されるように日本侵略の拠点となりうる地である。日本の国防上の観点からも、その国の動向を注視せざるを得ない、極めて重要な位置にあるのが朝鮮なのである。

 

 

明治政府、朝鮮へ親書を送る

 

 

 明治元年(1868年)、日本は朝鮮に使節を送って新政府の樹立を告げて新たな国交と通商を求めた。当初その使節となったのは、従来から朝鮮との折衝にあたってきた対馬の宗氏である。

 

 「王政一新萬機親裁ノ旨ヲ朝鮮国ニ通達セシム」と宗氏をして朝鮮通信使などの300年来の親交ある朝鮮に知らせ、従来どおりの勘合貿易と海難事故による漁民や商人の漂流民の保護などを確認したいだけのことだった。

 

 

 

朝鮮は儒教の礼義にかなっていないと受け取りを拒否

 

 

しかし、朝鮮は新生日本が送った国書を、ただちに送り返してきた。「こんなもの受け取れない」と言うのである。その拒否理由は簡単で、国書に日本側が「天皇」という称号を用いたからだ。

 

新生日本は天皇を「元首」とした。そこで「体制」が変わったことを告知する国書も当然「日本国天皇(まだ大日本帝国ではない)」という「差出人」となった。ところが、朝鮮側の論理つまり華夷秩序(国王はすべて肩書は中国皇帝の家臣)における立場では、「皇」の文字が入った中国以外の国書は受け取ることができない。それをすれば、日本が朝鮮の「主君」ということになってしまうし、本当の主君である中国をないがしろにすることになるからである。それゆえ朝鮮国は日本の国書を突き返した。彼等にとっては当然の行動だったが、逆に日本側は激しく怒った。「礼を尽くして友好を求めているのに、門前払いとは何事か!」ということである。

 

 これは宗氏から外務省が直接に折衝するようになってからも同じだった。

 

 

 明治9年に「日朝修好条規」が結ばれて交際が正常化すると、あれほど激しかった「征韓論」は国内からすっかり消えてしまっている

 

 

 

明治6年の政変

 

1868年(明治112月から翌春にかけて、朝鮮との国交交渉も緒につかず、したがって朝鮮の「無礼」はもとより、征韓の口実となることは、朝鮮側からはなにひとつ起こっていないにもかかわらず、早くも岩倉具視(ともみ)や木戸孝允(たかよし)ら政府首脳らによって朝鮮侵略が画策された。彼らは幕末の征韓論を思想的に受け継ぎ、そのうえに新政権成立後の士族の不満を外に向け、かつ朝鮮を侵略することによって、政治的、経済的、心理的な諸方面で、欧米諸国による圧迫の代償を得ようとしたのであった。当時、朝鮮では国王高宗の父、李応(りかおう)が大院君として政治の実権を握り、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、日本も同じく「洋賊」であるとして、国交を開くことに強く反対していた。そこで西郷隆盛らは、岩倉らが欧米に派遣されている間に、朝鮮への使節の派遣を強硬に主張し、自らその使節となり、事態の打開を計ることを主張した。1873(明治6)年のことである。しかし、岩倉や木戸、大久保利通らが同年秋に帰国すると、彼らは内治の先決を唱えて西郷らと対立、西郷ら征韓派の参議は政府を去った。

 

 

 

江華島事件

 

 

1875年、朝鮮の江華島で、日本の軍艦が朝鮮側を挑発して戦闘に発展する(江華島事件)。この事件を契機に日本政府は朝鮮に強硬な態度で迫り、翌76年には、日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させた。条約の内容は、日本の領事裁判権や関税免除を認めさせるなど、朝鮮側に不利な不平等なものであった。

 

 

 この結果、朝鮮の主導権を主張する清と、それを否定する日本が朝鮮をめぐって対立を深めていくことになる。

 

 

〔Ⅴ〕日清戦争

 

 

 朝鮮国内でも、清国を支持する勢力と日本を支持する勢力の対立が激化していた。1884年、

 

日本の協力を得て国内を改革しようとする金玉均らのグループが、クーデターを起こした。甲申事変と呼ばれるこの事件では、清国が朝鮮に軍隊を送り鎮圧したため、クーデターは失敗に終った。

 

 

 

 翌1835年、日本は清との関係を修復するため、伊藤博文を清に派遣し、李鴻章と天津条約を結ぶ。これによって日清両国は朝鮮から撤兵し、今後朝鮮に出兵する場合には、互いに事前通告することを約束したのである。

 

これは当時、フランス人のビゴーという人が描いた風刺漫画である。サムライは日本、右側は清国で、朝鮮を魚りあげようとしている。上で釣りあげた魚を狙っているのはロシアである。ロシアはウラジオストクまでシベリア鉄道を建設して、東アジアへの進出をねらっていた。日本政府はロシアの南下に危機感をいだき、朝鮮を清の属国ではなく、独立国にしなけらなならないと考えていた。

 

 

 1894年、朝鮮南部で大規模な農民の反乱、甲午農民戦争が起こる。この反乱は、キリスト教に反対する民族宗教・東学を信仰するグループを中心に、減税と外国人排斥を求めた農民の武力蜂起であった。この鎮圧のため、朝鮮政府は清国に出兵を要請する。清は、出兵とともに天津条約に従って日本に通知すると、日本も対抗して出兵したのである。

 

 

 これに対し農民軍は急ぎ朝鮮政府と和解するが、日清両国は朝鮮の内政改革をめぐって対立を深め、交戦状態となる。

 

 

 1894年8月、日本は清に宣戦を布告、日清戦争が始まる。開戦と同時に、政党はこれまでの政府批判を中止し、戦争を支持した。議会は戦争関係の予算・法律案をすべて承認、国民世論も戦争遂行に統一されていったのである。

 

 

 日本軍は、清国軍を朝鮮から追い出し、さらに遼東半島を占領。黄海海戦では、清の北洋艦隊を打ち破り、圧倒的な勝利を収めたのである。

 

 

 開戦から半年後、山口県下関で講和交渉が行われる。日本の全権は、総理大臣の伊藤博文と外務大臣の陸奥宗光、清国の全権は、李鴻章であった。そして1895年4月、下関条約(日清講和条約)が結ばれ、日清両国の講和が成立。

 

 

 

条約の内容は、

 

・清は朝鮮の独立を認める

 

・遼東半島及び台湾、澎湖(ほうこ)諸島を日本に譲る

 

・賠償金2億両(テール)を支払う

 

・新たに沙市(さし)、重慶(じゅうけい)、蘇州、杭州の4港を開く

 

 などであった。

 

 

 清の敗北によって東アジアの伝統的な華夷秩序は崩壊し、有史以来初めて朝鮮は独立国となって、1897年に国名を大韓帝国とあらためた。

 

 

 講和条約調印からわずか6日後、中国東北部への進出を狙うロシアが、ドイツ、フランスと共同で、遼東半島の返還を日本に要求してくる。いわゆる三国干渉である。三国の圧力に対し、日本の国力などを考えた政府は、この要求を受け入れざるをえなかった。

 

 しかし国民の間には「臥薪嘗胆」を合言葉に、ロシアへの対抗心が高まり、政府も軍備の拡張や工業化に邁進することになる。

 

 

 

 それまで日本は、鉄をイギリスなどからの輸入に頼っていた。しかし、三国干渉の対抗策として、軍備拡張のための鉄を必要とした。そのため戦争の賠償金が投じられ、官営八幡製鉄所が設立された。ドイツの技術を導入したこの製鉄所は、1901年に操業を開始し、15年ほどで鉄の国内生産80%を占めるまでになる。これ以降、八幡製鉄所は、日本の重工業の中心になっていったのである。

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〔Ⅵ〕日露戦争

 

 

(1)日露戦争の歴史的意義

 

日露戦争は、1904(明治37)年~1905年にかけて、新興の大日本帝国と、老大国ロシア帝国が、中国東北部(満州)・朝鮮の支配権をめぐって戦った、帝国主義の領土獲得戦争である。

 

 日本は旅順攻撃・奉天の会戦・日本海海戦などで勝利を収めたが、戦争遂行能力が限界に達し、ロシアも革命勃発などによって戦争終結を望み、米国大統領T=ルーズベルトの斡旋によりポーツマスで講和条約を締結。

 

 

この戦争の結果、既に衰勢が明らかであったロシア帝国は、没落への一途を辿り、1917年のロシア革命で壊滅、崩壊。逆に、大日本帝国は世界の「五大国」に成り上がり、東アジアで大いに覇を唱えるに至るが、その突出振りがアメリカやイギリスの逆鱗に触れ、1941年~1945年の太平洋戦争に敗れることで、アジアの覇権国家の地位を失うことになったのである。

 

 

日露戦争は、勝者である日本にとっても、敗者であるロシアにとっても、まさに運命の転機と言える政治的大事件であったが、それ以上に、後世の世界情勢に重大な影響を及ぼしたのである。日露戦争は、「有色人種が白色人種に勝利した、人類史上はじめての近代戦争」だったのである。

 

 

 

この当時の世界は、地球の陸地面積のほとんどを白人が支配しており、大多数の黄色人種や黒人(つまり有色人種)は、白人に植民地支配され、奴隷のような境遇に甘んじていたのである。この当時、有色人種の完全な主権国家は、全世界で日本、トルコ、タイ、エチオピアの4国だけであった。そして、白人の有識者は、この状況を「当然」だと思っていた。彼らは、「有色人種など、ブタや馬と同じなのだから、我々に飼育されているのが当然だし、その方がかえって幸せなのだ」などと公言していたのである。

 

 

しかし、純粋な有色人種の国家である日本が、白人国家ロシアに挑戦し、これを見事に打ち負かした事実は、白人たちを瞠目させ、そして彼らの支配に苦しんでいた有色人種たちに勇気を与えたのである。

 

 

(2)日本の戦争目的

 

日本は、19世紀終盤に至るまで、260年にわたって鎖国をしていた。これは、帝国主義の魔手から国富を守る措置であった。しかし、アメリカやロシアが強大な武力を背景にして開国を迫ると、もはや安住していられる時代は終わりを告げたのである。

 

 こうして、なかば無理やり開国させられた日本は、究極の選択を迫られた。

 

・白人の植民地になるのか。

 

・黄色人種初の帝国主義国家に生まれ変わるのか。

 

 

 

徳川幕府に取って代わった明治政府は、猛烈な「富国強兵政策」を展開し、従来の「封建的な農村国家」を、一気に「帝国主義的近代工業国家」に改造したのである。

 

 その過程で起きた戦争が、日清戦争と日露戦争である。

 

 この2つの戦争の最も重要な焦点は、「朝鮮半島の帰属問題」であった。

 

 

 当時、朝鮮王国は軍事力も経済力も前近代的な水準のままで、いつ外国の植民地になっても仕方がない状況に置かれていた。そんな朝鮮が、それまで独立を保っていられたのは、中国(清帝国)の属国になっていたからである。

 

 その中国は、19世紀末の段階で、白人勢力に多くの領土を侵食され、もはや半植民地と成り下がってしまった。今や朝鮮は、自分ひとりで帝国主義勢力と戦わなければならない状況になってしまったのである。

 

 

日本は、当初は、朝鮮に技術援助を行い、日本と同様の帝国主義国家に生まれ変わってもらおうと考えていた。そして、共に手を携えて白人勢力に立ち向かおうとしたのである。しかし、この国では保守的な勢力が強く、改革などほとんど望めない状態であった。このままでは、朝鮮半島は、フランスかロシアかドイツの植民地になってしまう。そうなったら、日本は完全に白人勢力に包囲されてしまうのである。

 

 

これは、当時の日本人にとって、たいへんな恐怖であった。ちょっとでも隙を見せたら、日本本土まで、たちまち乗っ取られてしまう危険が迫っていたのである。日本は、打って出た。すなわち、朝鮮半島を勢力下に置き、ここを橋頭堡にして白人勢力の進出を防ぎとめようとしたのである。これが、いわゆる「日帝50年支配」の幕開けであった。

 

 

先に述べた、日清戦争後の「三国干渉」で、最も利益を得たのは、地理的に朝鮮に近いロシアであった。大陸への日本の影響力を弱めることに成功したこの国は、中国東北部(満州)や朝鮮半島を植民地にしようと動き出した。中国政府の微弱な抵抗を撥ねのけて、軍隊を満州のみならず、朝鮮半島にまで送り込んできたのでる。 

 

このままでは、朝鮮半島がロシアに奪われる。日本としては、朝鮮半島を我が手に収め、満州は西欧列強からの中立地帯として中国に保持させておきたかったのである。

 

 すなわち、日露戦争における日本の戦争目的は、「ロシアの勢力を、朝鮮半島と満州から駆逐する」ことであったのである。

 

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〔Ⅶ〕日韓併合

 

 

 

呉善花『韓国併合への道 完全版』文春新書 2012

 

222)朝鮮王国の政治的伝統

 

1、世界に類例を見ない硬直した文治官僚国家体制

 

2、中華主義に基づく華夷秩序の世界観

 

3、大国に頼ろうとする事大主義

 

4、儒教国家を保守する衛正斥邪(朱子学を唯一の正として(まも)り、それ以外のいっさいの思想信仰を邪として(しりぞ)ける)の思想

 

 

 

 韓国併合ではなく、韓国独立への道を自らの手で開くには、当時の大衆である農民の幅広い団結を生み出すことが最も重要なことであった。日本の保護国となってから、併合されるまで、最も強固な抵抗を示したのは、儒生や旧将兵らが農民を組織した義兵闘争であった。それ以前には、伝統的な農民一揆があり、大院君派の儒生らが農民を糾合して起こした初期義兵闘争があり、また東学が指導した甲午農民武装蜂起があった。

 

 農民蜂起の根本にあるのは生活の疲弊である。だからこそ時の権力に対して命をかけた武装闘争を展開した。政権が親清だろうと親日だろうと親露だろうと、あるいはそれらの国が政治の実権を握っていようとも、農民たちが疲弊していることには何らの変りもなかった。油が注がれればいつでも爆発する状況にあった。

 

 彼らは伝統的に書院を根拠地とする地方儒生や地方両班たちの影響下にあった。そして地方両班たちもまた疲弊していた。しかしながら、彼らはその共通の疲弊によることなく、衛正斥邪の大義によってしか農民たちに決起を訴えることがなかった。しかも地域に根を張る彼らは、ついに地域を越えた有効な横の連帯を生み出すことができなかった。

 

 この根強い伝統のために、東学にしても旧将兵にしても、儒生らに完全に取って代わって農民たちをリードすることがききなかった。そのため農民たちの蜂起は、本質的に暴動のレベルを超えることはなかった。

 

 

 

 朝鮮王国末期、住民は重税にあえぎ、両班たちの間での賄賂と不正収奪の横行、朝鮮政府の暴政に対し次のような詩が朝鮮国内に広く伝昌されていた。

 

 

金樽美酒千人血    金の樽に入った美酒は、千人の血からできており

 

玉椀佳魚萬姓膏    玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている

 

燭涙落時民涙落    ろうそくから蝋が滴るとき、人々の涙も滴り

 

歌舞高處怨聲高    歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高くとどろく

 

 

 

 

李氏朝鮮は大韓帝国と国号を変え、1987年、独自の近代化「光武改革」を進める。

 

イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、光武改革について著書『朝鮮紀行』で以下のように述べている。

 

「朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」 イザベラ・バード、『朝鮮紀行』講談社学術文庫 1998年、p343

 

 

 

呉善花 前掲書 218

 

 韓国でも、当時の李朝―韓国政府のあまりに無残な退廃ぶりへの批判がないわけではない。しかしながら、李朝―韓国の側の「併合への道をもたらした原因」を徹底して解明していこうとする動きは、少なくとも韓国内部からは現在に至るまで出てきてはいない。ようするに、自らの側に外国による統治を招来してしまった要因を探り当て、そこに深い反省を寄せて現在から未来への展望をもとうとする気持ちが、解放直後の韓国知識人の間に生まれることもなく、いまなお欠落したままなのである。

 

私にいわせれば、李朝―韓国の積極的な改革を推進しようとしなかった政治指導者たちは、一貫して日本の統治下に入らざるを得ない道を自ら大きく開いていったのである。彼らは国内の自主独立への動きを自ら摘み取り、独自に独立国家への道を切り開こうとする理念もなければ指導力もなかった。

 

韓国独立への道が開かれる可能性は、金玉均らによる甲申政変の時点と、彼らを引き継いだ開化派の残党が甲午改革を自主的・積極的に推進していこうとした時点にあった、というのが私の考えである。李朝はいずれの場合も自らの手をもって、それらの国内改革の動きを潰したのである。前者は清国を(たの)みとし、後者はロシアを恃みとして行われたものである。

 

以後の李朝―韓国に独立への可能性はまったくなかった。そこで登場したのが、李容九率いる一進会だった。彼らは国家への絶望から出発し、民族の尊厳の確保を目指して日韓合邦運動に挺身した。その結果は日本による韓国の併合だった。

 

しかしながら、少なくとも民族の尊厳の確保にかけて大アジア主義を掲げ、国内で最大限の努力を傾けた李容九らを売国奴と決めつけ、国内では表立った活動をすることなく外国で抗日活動を展開した安昌浩や李承晩らを愛国者・抗日の闘士と高く評価するといったバランスシートは、私にはまったく不当なものと思える。

 

 

1910829日、「韓国併合に関する条約」が公布された。

 

その第1条には「韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全且つ永久に日本国皇帝陛下に譲渡する」とあり、

 

第2条で「日本国皇帝陛下は、前条に掲げたる譲渡を受諾し、且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」とされている。

 

つまり、韓国皇帝が日本天皇に譲渡したとして、韓国併合を実現した。このように「任意的併合」の形式をとったのは、すでに保護国である韓国に対し「強制的併合」を行うわけにはいかないという、国際法上の制約によるものであった。また、韓国側は「韓国」の国号と、皇帝に王称を与えることに固執したが、日本政府は前項は認めず、名称を「朝鮮」とし、退位する皇帝純宗には「王殿下」の称号を与えた。

 

 

日本では領土拡張を喜ぶ世論が多く、歴史学者は「日鮮同祖論」などを発表して併合を合理化した。世界史のなかで、一個の独立国が自ら申し出た形で併合されたのは、アメリカのハワイ併合と日本による韓国併合の二例のみである。

 

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第Ⅲ章 韓国はなぜかくも反日なのか

 

 

 ここまで朝鮮半島の歴史、日本と朝鮮半島の関係史を見てきて、韓国が辟易するほどの不毛な反日を繰り返し続ける理由が、おぼろげながら分かってきた。私はその原因として

 

〔Ⅰ〕 国家の正統性

 

〔Ⅱ〕儒教(朱子学)の影響

 

という二つの観点から考えてみたいと思う。

 

 

〔Ⅰ〕国家の正統性

 

(1)日本国の正統性

 

 ほとんどの日本人は、「国家の正統性」などということを考えたこともないだろう。

その理由として、私はつぎのようなことを考えた。

 

・国土のすべてが海に囲まれていて、他国と接する国境線がない。

 

・国内のどこでも日本語が通じるし、日本語以外の言葉が通じない。

 

・民族間の対立がない。

 

・生命をかけて闘うような宗教間の対立がない。

 

・生命をかけて闘うような政治勢力や思想の対立がない。

 

・世界で一番長いと言われる皇室制度があり、多くの人が暗黙のうちに支持している。

 

 

 これらの理由は今の日本人からすると当たり前のことであり、ことさら意識することでもないだろう。しかし、江戸から明治への動乱期、鳥羽伏見の戦いにおいて、幕府軍は圧倒的な兵力を持ちながら、新政府軍が掲げる錦の御旗を遠望したとたんに、浮足立ち、退却をはじめてしまった。

 

 大阪城において指揮をとっていた総大将徳川慶喜も、大阪湾に停泊していた幕府軍艦開陽丸で江戸に逃げ帰ってしまった。錦の御旗を掲げた新政府軍と戦って、もし勝ったとしても、末代まで朝敵の悪名免れ難いことを恐れたのである。

 

 その後、朝廷から慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされた。それを見て、欧米列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての正統性をうしなってしまったのである。

 

戦国時代においても、天下をねらう大名たちは、京に上ることを目指した。それは朝廷の権威を利用して、天皇の名において天下に号令をかけ、実質的な権力を握るというのが、日本における天下獲りたったのである。

 

第二次世界大戦において、負けたとはいえ日本はアメリカを中心とする世界と戦った。その後、一丸となって奇跡的ともいえる経済復興を遂げ、短期間に世界第2位の経済大国になったのである。だから今の日本という国の正統性についての議論は、国内にも世界にもまったくない。あまりにも自明のことなのである。

 

 

 

(2)  朝鮮半島は、一貫して中華思想(華夷秩序)の枠内で生きてきた

 

 筑波大学の古田博司教授は朝鮮半島を、「廊下」と見立てる。半島の北東側には険しい山々があり、外敵が侵入するルートは同半島北西側の比較的なだらかな地域、すなわち遼東半島から現在のピョンヤン、ソウルを通り、半島南西部に抜ける回廊しかないからだろう。

 

 しかも、この回廊は先が海で「行き止まり」である。軍事専門家はこの種の「行き止まり廊下」のことを「戦略的縦深がない」と表現する。撤退できる余地に限りがあるため、長期戦に耐えられない悲劇的地形という意味である。

 

 だが、朝鮮半島の地政学的特徴は「廊下」だけではない。「廊下」は遼東半島から半島南部に至るルートだが、遼東半島北方にはもう一つの回廊、すなわち靺鞨、女真、契丹など多くの北方狩猟・遊牧民族が華北方面に向かうルートもある。これら二つのルートが半島北西部でつながっているのである。

 

 こうした地形の朝鮮半島にとって、華北の中華王朝やマンジュ地方の遊牧・狩猟勢力の強大化はただちに、潜在的脅威を意味する。一度外敵が件の「廊下」を通って南下を開始すれば、これを防ぐことは容易ではないからである。こうした事態を回避するため、半島の住民は二つの戦術を編み出してきた。

 

 第一の戦術は、侵入した外敵と徹底的に戦うことである。戦うといっても、劣勢になれば歴代の王族は国民を置いて逃げてしまうことが多かった。外敵と徹底的に戦ったのはむしろ、一般庶民だったのかもしれない。しかし、指導者を欠いた国民が外敵を打ち負かして国を守ることができるはずがない。

 

 第二は、潜在的脅威となりうる外敵が出現すれば、これとは戦わず、むしろ取り込み、朝貢し、冊封関係に入って自国の安全保障を確保する方法である。「名」を捨てても、しっかりと「実」をとる戦術だが、戦略的縦深のない朝鮮半島には、きわめて現実的な選択であった。

 

7世紀新羅の金春秋(武烈王)は唐の冊封を受け、新羅国王となって百済と高句麗を滅ぼし半島を統一した。これ以後、朝鮮半島の国家は新羅であれ高麗であれ李氏朝鮮であれ全て中国皇帝の冊封体制下に入る。その間に、大陸に於いて民族の興亡が繰り返されるたびに、半島国家は強い勢力に朝貢し、承認を得ることにより国家を存続してきたのである。

 

 

そのなかでも特に屈辱的な臣従関係を強いられたのが李氏朝鮮第16代国王・仁祖(在位16231649年)と清の第2代皇帝ホンタイジの関係である。

 

李氏朝鮮は14世紀末の建国以来、明の朝貢国であったが、17世紀に入ると満州(中国東北部)で女真族が建てた後金が勃興した。後金は1636年、ホンタイジが皇帝を称し、国号を清と変更すると、朝鮮に対して朝貢及び明への派兵を求めてきた。華夷思想を重んじ、女真族を北狄と蔑んできた仁祖にとって、女真族の要求は到底呑めるものではなかった。

(これは今の日本に対する態度と同じである。)

 

仁祖が朝貢を拒絶し、清皇帝を認めないと公表すると、激怒したホンタイジはただちに朝鮮への遠征を行った。清の圧倒的な兵力の前に各地で敗北を重ねた朝鮮軍は開戦後わずか40日余りで降伏し、和議が持たれた。

 

講和内容は11項目に及び、清への朝貢と清からの冊封、明との断交、朝鮮王子を人質に差し出す、膨大な賠償金など屈辱的なものであった。そればかりか仁祖は三田渡で、ホンタイジに対し三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をもって清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった。それだけでなく、その場に「大清皇帝功徳碑」を建立させられたのである。

 

 

その碑には、「愚かな朝鮮王は、偉大な清国皇帝に逆らった。清国皇帝は愚かな朝鮮王をたしなめ、己の大罪を諭してやった。良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。」という内容が、満州語・モンゴル語・漢語で刻まれている。その碑の隣には、ホンタイジに三跪九叩頭の礼をする朝鮮王・仁祖の銅板レリーフが建てられている。

 

 

その後、日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制より李氏朝鮮が離脱したのを機に、「屈辱碑」とされていた同碑は迎恩門と同時期に倒され、地中に埋められた。しかし日韓併合後の1913年には引き上げられ、さらに光復後(1945年)にも「恥さらしだ」との理由で李承晩の指示によって再び埋められたり、と何度か滅出を繰り返した後、大韓民国指定史跡第101号(195721日)に指定された。1963年に洪水で流されたが、ソウル特別市松坡区石村洞 289-3(北緯373011.92 東経1270625.44秒)に復元されて、今でも建っている。

 

 

(3)  初の独立国家「大韓帝国」

 

1895(明治28)年に日清戦争の日本の勝利によって、朝鮮半島は中国からの独立を獲得し、1987年に国名を「大韓帝国」と改めた。国王も中国に遠慮することなく「皇帝」を名のることができた。

 

 大韓帝国は部分的に近代的な国家の法やシステムを取り入れてはいたものの、本質的には王朝国家としての李朝をそのまま引き継いだものであった。

 

 朝鮮半島には、日本やヨーロッパのように武人が支配する封建制国家の歴史がない。中国と同じように、古代以来の文人官僚が政治を行う王朝国家が、延々と近世に至るまで続いたのである。

 

 独立国家となったとはいえ、大韓帝国に国家を統治し経営する能力はなかった。ロシアはますます利権の獲得、内政干渉を強めた。高宗は親露派官僚によってロシア公使館に身柄を移された。それに対して開化派官僚を中心とする独立協会が結成され、反ロシア闘争が推し進められた。

 

 朝鮮半島の帰属を争い、日露戦争が勃発、日本は戦後、大韓帝国と第二次、第三次日韓協約を結び、1910年には日本が大韓帝国併合し、大韓帝国は消滅した。

 

 

 

(4)  第二次世界大戦後の朝鮮半島

 

朝鮮人民共和国樹立

 

日本の敗戦を前に、総督府から治安維持の権限移譲を打診された朝鮮人民族運動家は、ただちに民族主義者から共産主義者まで含む統一組織として、建国準備委員会を設立した。そして建国準備委員会の呼びかけで全国人民代表者大会が開かれ、19459月に朝鮮人民共和国の樹立が宣言された。

 

主席はアメリカで活動していた李承晩、副主席は民族主義者の呂運亨、国務総理は共産主義者の許憲が選出された。しかし、左右の対立は激しく、国外に逃れていた活動家との連絡も不十分で、しかもアメリカやソ連は朝鮮人民共和国を承認しなかった。朝鮮半島を占領したアメリカとソ連は、どちらも独立国家に否定的だった。

 

 

南北分断統治

 

 アメリカの軍政下に置かれた南朝鮮では、生産の回復が遅れ、インフレと食糧不足が人々を苦しめた。経済的混乱のなかで、各政治勢力間の抗争やテロが相次ぎ、米軍政庁は共産党の陰謀だとして弾圧を強めた。その一方で、GARIOA(占領地域救済政府資金)やEROA(占領地域経済復興援助資金)をはじめとするアメリカの経済援助が、かろうじて南朝鮮の経済を支えていた。

 

 北朝鮮ではソ連の指導によって各レベルの人民委員会が組織され、朝鮮共産党(後の労働党)の活動が活発になった。解放直後にはソ連から金日成が帰国してはじめて人々の前に現れ、中央行政機関として組織された北朝鮮臨時人民委員会の委員長となった。この委員会のもとで、地主の土地を小作農に分配して土地改革が進められ、軍隊や警察も創設された。その理論的根拠は、北朝鮮を民主主義の根拠地として強化し、米軍政下の南朝鮮を解放すべきだという「民主基地論」だった。

 

 

分断国家の成立

 

 李承晩は、米ソが主張する信託統治に反対し、南朝鮮だけの単独政府樹立を主張していたため、はじめ米軍政庁から敬遠されていた。しかし、冷戦の激化とともに、明確な反共主義を掲げる李承晩をアメリカも支援し始めた。

 

 そして、アメリカは当初の信託統治案から転換し、1947年の国連総会に国連監視下で総選挙を実施することを提案し、可決させた。これに基づいて派遣された国連臨時朝鮮委員団は、南朝鮮だけの単独選挙による政府樹立を提案し、ソ連圏諸国が棄権するなかで、国連小総会もこれを可決した。これに対して南北朝鮮で単独選挙反対の動きが激しくなったが、アメリカはこれを激しく弾圧した。

 

 こうして、485月に国連監視下で南朝鮮の単独選挙が実施され、国会議員が選出されて憲法が制定されたあと、李承晩が初代大統領に選出されて8月に大韓民国が樹立された。

 

 北朝鮮でも単独国家樹立へ向けた動きが加速した。194711月には憲法草案の作成が開始され、48年に入ると国会にあたる最高人民会議の代議員が選出され、9月には朝鮮民主主義人民共和国が樹立されて、金日成が初代首相となった。

 

 

朝鮮戦争

 

 分断国家として成立した韓国と北朝鮮は、どちらも自国の正統性を主張し、武力による朝鮮半島統一を公言していた。韓国はアメリカに軍事援助を申請したが、アメリカは独裁やインフレなどの不安定な情勢を憂慮して攻撃用兵器を除く援助にとどめ、しかも1949年にはアメリカ軍が撤退した。

 

 一方、ソ連軍も48年までに北朝鮮から撤退していたが、49年に北朝鮮はソ連・中国と軍事協定を結んだ。そして、ソ連からは戦車や戦闘機、艦艇などの援助を受け、中国軍に所属していた精鋭の朝鮮人部隊も帰国して朝鮮人民軍に編入された。

 

 こうして朝鮮半島から米ソ両軍が撤退して力の空白がうまれるとともに、韓国と北朝鮮の軍事力のバランスが不均衡になった。そして、韓国では各地でパルチザン闘争(労働者・農民などで組織された非正規軍)が展開され、1950年の国会議員選挙では、与党が大敗した。このような不安定な情勢のなかで、506月に北朝鮮軍が南下を開始し、朝鮮戦争の火ぶたが切られた。

 

 アメリカはただちに国連安全保障理事会の召集を要求し、ソ連が欠席するなかで北朝鮮を非難して38度線以北への撤退を求める決議を可決した。北朝鮮軍がソウルを占領すると、米軍はこれに対抗して釜山に上陸し、米軍を主力とする国連軍の派遣も決定された。やがて、北朝鮮軍が釜山・大邱を除く韓国全土を制圧すると、国連軍が仁川に上陸してソウルを奪回した。さらに国連軍は安保理決議の枠を越え、中国国境付近まで北朝鮮軍を追い込んだため、中国が人民志願軍を参戦させて、ふたたび国連軍と韓国軍を南に撤退させた。

 

 こうして両勢力は38度線をはさんで膠着状態となり、1953年に入ってアメリカでアイゼンハワー政権が誕生し、ソ連ではスターリンが死ぬなど情勢が変化すると、休戦への情勢変化が生まれた。そして537月、北朝鮮軍・国連軍・中国軍の三者が休戦協定に調印した。この間の死者は、軍民合わせて200万人を超えるといわれている。

 

 

(5)  韓国の正統性

 

韓国と北朝鮮は独立後「どちらの国家が正統か」を巡る対立と競争を続けてきた。「北朝鮮に正統性がある」――と北朝鮮はもちろん、韓国の左翼系学者や活動家たちも主張してきた。

 

北朝鮮建国の父である金日成主席は、「我々は日本と戦争して勝利したが、南朝鮮の指導者は誰一人戦闘さえしていない。だから、正統性は北朝鮮にある」との理屈を展開した。

 

この主張に、韓国人はなかなか反論できなかった。なぜならば、韓国は独立戦争で勝ち取った国でないという韓国人自らの「脛(すね)の大傷」があるからである。「米軍進駐により棚ぼた式に独立を得た」とは口が裂けてもいえないのだ。

 

 

「正統性」は韓国人の骨の髄までしみ込んだ儒教に基づく伝統的な価値観である。自分の家族や家系を語るにも、政治行動や政治判断をする際にも最大の基準になる。朴槿恵前大統領の父である朴正煕大統領(当時)はクーデターで政権を奪取したため、「正統性がない」と常に批判された。政権や政治家が「正統性がない」と批判されると、崩壊や政治的抹殺につながる。

 

そこで韓国は正統性を作り上げるためあらゆる努力をしなければならなくなった。自分の価値観が自分の首を絞めることになったのである。しかし、もともとないものを作るのだから、嘘に嘘を重ね続けるしかない、これが韓国の苦しみを増幅し続けている。

 

 

 

名ばかりの「大韓民国臨時政府」

 

 191931日に始まった独立運動(三・一運動)は、日本の総督府によって弾圧されたが、朝鮮半島の外にいた人々は、上海で「大韓民国臨時政府」を組織した。

 

 日中戦争が勃発すると、重慶に本部を移す。日中戦争の激化に伴い、やはり重慶に移ってきていた中華民国の国民党政府の好意の下で存続はしていた。臨時政府は、独自の軍隊である「光復軍」を設立したが、この維持費は、国民党政府が出しており、とても独立の軍隊とは言える状態ではなかった。

 

 「大韓臨時政府」の「政府」は自称であって、朝鮮半島の朝鮮人とは結びつきを持たず、孤絶した異郷の地にあって、しかも支配すべき国民も領土も持たない存在であった。それが「大韓民国臨時政府」の実態である。

 

 

 

韓国の正統性の根拠

 

大韓民国憲法の前文は、以下のような文章で始まっている。

 

「悠久の歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統(中略)を継承し・・・」

 

ここでいう「法統」とは「歴史的正統性」のことである。大韓民国は1919年から存在していたと言っているのである。

 

 

韓国の歴史教科書には、「大韓民国臨時政府」の光復軍の戦いぶりが2ページわたって記述されている。

 

《日帝が太平洋戦争を起こすと、大韓民国臨時政府は日本に宣戦布告し、連合軍とともに独立戦争を展開した。このとき、韓国光復軍は中国各地で中国軍と協力して日本軍と戦い、遠くインドやミャンマー(ビルマ)戦線にまで進み、イギリス軍とともに対日戦闘に参加した。》

 

《わが民族の積極的な独立戦争は各国に知られ、世界列強は韓国の独立問題に関心を持つようになった。》

 

 《連合国の首脳らが集まったカイロ会談とポツダム宣言で、韓国の独立を約束する土台が築かれた。》

 

と述べ、光復軍の戦いが独立に寄与したことを強調している。

 

 

しかし、大韓民国臨時政府はまったく実態がともなわず、韓国光復軍も戦績がなく、だからこそ、サンフランシスコ講和条約で韓国が連合国の一員に参加させろと強く要望しても、連合国側から一顧だにされずリストから除外されているのである。結局枢軸国・連合国双方からいかなる地位も認められず、国際的承認は最後まで得られなかったのである。

 

 したがって大韓民国臨時政府の日本に対する宣戦布告文書は、日本にも無視され、連合国にも無視されている。

 

 中学や高校の歴史教科書に、このような嘘が堂々と記載されていること自体が驚きであるが、それを学ばされている子どもたちもかわいそうである。

 

 

 

池上彰『そうだったのか!朝鮮半島』集英社 2014  P.21

 

これについて、韓国の歴史家は、次のように書いています。

 

「大韓民国が臨時政府の歴史的正統性を継承しているという主張は、憲法はもちろん教科書でも教えられてきたので、多くの国民がこれを常識として受け入れている。しかし1980年代後半以降、民族解放運動史や現代史を専攻する歴史学者のなかで、大韓民国政府が臨時政府の歴史的正統性を継承していると主張する人はあまりいない。はっきり言えば、気恥ずかしくて誰も言えないのだ」(韓洪九著、高崎宗司監訳『韓洪九の韓国現代史』)

 

 

 なぜ歴史的正統性を継承していないというのでしょうか。韓氏は、こう言います。

 

「大韓民国政府の高級官僚、なかでも警察と軍においては、それまで日帝に仕えてきた親日派が主流を占めていたのです」

 

「親日残滓勢力の清算や、分断克服などの課題に対する臨時政府の核心となる政策もまた、大韓民国においては継承されませんでした」

 

「そうだとすれば、李承晩政権をはじめとする歴代の政権は、なぜ臨時政府の歴史的正統性を継承しているという主張を繰り返してきたのでしょうか? こうした政権は自らに欠如している正統性を、臨時政府の業績と権威を借用して補おうとしたのです。とりわけ南北分断の状況にあって、満州で抗日武装闘争を繰り広げた勢力が北で権力を掌握し、自身の業績を革命伝統として誇るや、南の政権は臨時政府に託してこれに対抗したのです」

 

 北朝鮮の指導者ばかりが日本と戦っていたわけではない。韓国の指導者も、日本と戦って祖国を建国した。こういう「建国神話」を作るため、「大韓民国臨時政府」の名前に頼ったというのです。

 

48年に樹立された、単独政府としての大韓民国政府が実際に継承したものは、臨時政府ではなく、臨時政府を徹頭徹尾否定していた米軍政でした」(同書)

 

 

 北朝鮮は、抗日武装闘争で日本の支配と戦ってきた抗日ゲリラの指導者・金日成によって建国されたと主張しています。これ自体、実は「神話」でしかないのだが、北朝鮮が反日闘争を実践してきたという「正統性」を主張すると、韓国の指導者は具合が悪かったのです。新政府の中枢にいたのは、日本の植民地支配に協力した人物たちでしたし、李承晩は、アメリカでの生活が長く、日本の支配と直接戦っていたわけではなかったからです。

 

 

 1940年代にアメリカにいた李承晩は、全朝鮮を代表する政党政府としての承認をアメリカ政府から得ようと工作しますが、相手にされませんでした。臨時政府の実態とは、このようなものでした。

 

 

 しかし国民に対しては、朝鮮半島の外にあって、抗日戦争を戦い抜き、日本を敗北させた臨時政府。この臨時政府を継承して建国されたのが、現在の大韓民国であると伝えます。韓国の建国には、この「建国神話」が必要だったのです。

 

 日本が降伏したから、棚からボタ餅式に建国できた。これではなんとも納まりが悪いというわけです。

 

 

 

 米国人政治学者ロバート・ケリー氏がアジア外交雑誌「ディプロマット」に寄稿した、「なぜ韓国はここまで日本に妄念を抱くのか」という論文において、ケリー氏は、南鮮の反日を次のように分析している。

 

 韓国が反日の姿勢を崩さない理由は何か。ケリー教授は結論として、歴史や植民地支配を原因とするよりも、本当は朝鮮民族の正統性をめぐって北朝鮮に対抗するための道具として使っているのだ、と指摘していた。

 

 ケリー教授は同論文で、近年の韓国暮らしの体験からまず述べる。

 

 「韓国で少しでも生活すれば、韓国全体が日本に対して異様なほど否定的な態度に執着していることが誰の目にも明白となる。そうした異様な反日の実例としては、韓国の子供たちの旧日本兵を狙撃する遊びや、日本の軍国主義復活論、米国内での慰安婦像建設ロビー工作などが挙げられる。旭日旗を連想させる赤と白の縞のシャツを着た青年が謝罪をさせられるという、これ以上はないほどくだらない事例も目撃した」

 

 そのうえで同教授は、これほど官民一体となって日本を叩くのは70年前までの歴史や植民地支配だけが原因だとは思えないとして、以下のような分析を述べた。

 

 ・韓国の反日は単なる感情や政治を超えて、民族や国家の支えの探求に近い。つまり、自分たちのアイデンティティーを規定するために反日が必要だとしているのだ。

 

 ・同時に韓国の反日は、朝鮮民族としての正統性の主張の変形でもある。自民族の伝統や誇り、そして純粋性を主張するための道具や武器として反日があるのだと言ってよい。

 

 ・韓国が朝鮮民族の純粋性を強調すれば、どうしても北朝鮮との競争になる。しかし朝鮮民族の純粋性や自主性、伝統保持となると、韓国は北朝鮮にはかなわない。そのギャップを埋めるためにも日本を叩くことが必要になる。

 

 ・韓国は朝鮮民族の正統性を主張しようにも、民族の純粋性を説くには欧米や日本の影響が多すぎる。政治の面で北朝鮮に対抗しようとしても、韓国の民主主義は人的コネや汚職が多すぎる。だから韓国の朝鮮民族としての正統性は北朝鮮に劣っている。そのため、日本を悪と位置づけ、叩き続けることが代替の方法となる。

 

 要するに、韓国の正統性の主張は本来は北朝鮮に対して向けられるべきなのに、日本叩きがその安易な代替方法となっているというのだ。

 

 日本に矛先が向かうのは、ひとえに朝鮮民族としての正統性が北朝鮮にはかなわないからである。本来、北朝鮮は韓国となお戦争状態にあり、韓国の消滅を正面から唱える敵である。だが韓国は、その敵よりも、日本をさらに激しい怒りや憎しみの対象として非難し続けるのだ。

 

 この民族感情における異常な屈折は、我々日本人の想像をはるかに超えている。彼らの反日が、自分たちのアイデンティティーを規定するためのものであるという説は、今までもあったし、珍しい説ではない。だが、それが、民族の正統性における北朝鮮への対抗での反日なら、攻撃相手が全く違う。そもそも、自民族のアイデンティティーのための反日ですら、迷惑以外の何ものでもなかったのだ。しかし、同じ民族同士の正統性の争いに、他国を巻き込めば、嫌悪感を持たれて当然だ。日本の嫌韓は、そういう不条理を全て包括した上で共感を得ていると言って、差し支えないだろう。

 

 

 

20178月14日現在の朝鮮半島(この原稿を書いている時点)

 

北朝鮮

 

北朝鮮の弾道ミサイル発射実験と国連の制裁決議が、互いにエスカレートし続けるなかで、北朝鮮軍は9日、新型中距離弾道ミサイル「火星12」によるグアム島周辺への包囲射撃計画について、4発同時に発射し、米軍基地があるグアム島周辺の30~40キロの海上水域に着弾させることを検討していると発表した。

 

 8月中旬までに準備を終わらせ、発射台を立てた態勢で核戦力の総司令官・金正恩の命令を待つとしている。包囲射撃では「島根県、広島県、高知県の上空を通過する」とも言及。

 

日本政府は日本国内への落下に備えて空自の地対空誘導弾パトリオットミサイル(PAC3)を、北朝鮮が上空を通過するとした島根、広島、高知に愛媛県を加えた4県の陸上自衛隊駐屯地への配備を12日朝までに完了した。

 

トランプ大統領は北朝鮮に対して「炎と怒りに直面する」と激しい口調で警告を発しており、もし北朝鮮がこの計画を強行するならば、朝鮮半島をめぐる軍事的緊張は、1953年の南北朝鮮の休戦協定以来、最大に達することになる。

 

 

韓国

 

 韓国では、全国民主労組総連盟(民主労総)などが主導した市民団体が812日午後、ソウル中心部の竜山(ヨンサン)駅前広場で、日本統治時代に徴用されて日本企業で働いた徴用工を象徴する「強制徴用労働者像」の除幕式を行った。韓国で徴用工像が設置されるのは初めてであるが、今後日本大使館前や南部・済州市の日本総領事館前でも設置が計画されている。

 

 この問題が出てきた背景には、最近韓国の裁判所による徴用工の日本企業に対する損害賠償を認める判決が続いていることがある。

 

 徴用工の賠償問題については、日韓両政府ともに1965年の「日韓請求権協定」で「完全」かつ「最終的」に解決されたとの立場で一致している。

 

協定に基づき日本から韓国に経済援助資金5億ドル(無償供与3億ドル、政府借款2億ドル)が提供された。当時の朴正煕大統領は日本からの援助資金を原資に、ソウル―釜山間の京釜高速道路や浦項製鉄所(現ポスコ)、後に冬のソナタで有名になった春川の多目的ダムなどを建設。それらは「漢江の奇跡」といわれた韓国の高度成長を支える社会基盤となったのである。

 

ところが韓国大法院は20125月に「日本の朝鮮統治は違法な占領」という「後付けの理屈」で、元徴用工の賠償問題は日韓請求権協定の適用外であり、日本企業に対して損害賠償及び未払い賃金の支払いを求める「個人の請求権は消滅していない」という判断を示した。そのため、先に述べた徴用工に対する賠償請求を、韓国の裁判所が認める判決が続いているのである。

 

 「協定の適用外」が乱発され日本統治時代のあらゆる事象について日本政府や民間企業に賠償を求める動きが加速するのは想像にかたくない。そのように協定や条約を事実上破棄するような無法がまかり通れば国家間の合意など意味がなくなってしまうと懸念されている。

 

 これは「慰安婦像」問題とまったく同じ構図である。国家間で取り決めた約束について、法律の解釈を曲げてでも「国民の声」だとか「国民の感情」などの理由をつけて反故にする、これが韓国政府の常套手段であることがはっきりしてきた。

 

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〔Ⅱ〕韓国の朱子学

 

 

 「歴史」のところでも書いたが、高麗時代、鎮護国家の仏教は政治権力と強く結びつきすぎて堕落した。それが原因で次の李氏朝鮮は崇儒排仏の政策をとり、仏教寺院は山奥に追いやられ僧侶は賤民の位に貶められた。

 

 

 それ以来李氏朝鮮は儒教が国家運営の基盤になった。朝鮮民族が日本人と異なるのは、中華帝国のものなら何がなんでも取り入れたしまったことである。儒教、仏教、道教、漢字、科挙、宦官、独裁政治体制、賤民制度、生活様式、歴史、風俗習慣、文化にいたるまで、一滴の水も漏らさないように模倣してきたのである。

 

 

 特に中華思想の根本である儒教については、本家中国よりはるかに厳格に実践するようになった。特に李氏朝鮮が北狄と蔑んできた後金(清)から三跪九叩頭という屈辱的な礼を強要されてから、朝鮮こそが中華思想の実質的後継者である(小中華)として、中国以上に厳格な儒教(朱子学)の実践国になったのである。今客観的に眺めると、歴史的必然性のように思えるが、このことが現在の韓国、そして未来に向かっても恐らく展望の開けない停滞をつづけていくしかないと思える韓国の不幸の根源であると思う。

 

 

 私はここまでこの研究を進めてきて、韓国が常識では考えられないような不合理で独善的な主張を続けている原因は朱子学にあると結論づけるに至った。そこで儒教・朱子学について概括し、それが韓国に多大な害毒を植え付けてきた事実についてまとめることにした。

 

 

(1)中国古代の歴史と儒教の成立

 

 

・周(紀元前1046年頃 ~紀元前256年):中国古代の王朝。周代において中国文明が成立

 

・春秋時代  前770~前403 周が衰え、諸侯が争った時代

 

・孔子    前550479

 

・戦国時代  前403~前221 七国(韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕)が争った時代

 

・秦の始皇帝 中国を統一  前221

 

 

 

中国古代に周という国が覇権を握っていた時代には、身分制度に基づいて秩序だった社会が営まれていた。しかし、その周の勢力が衰えて春秋戦国の時代になると、数多くの列強が覇を競った戦乱の時代になった。諸侯は武力によってその力を誇る「覇道」に従い、実力ある者が目上の者を蹴落として成り上がる実力主義が横行していた。

 

 

その社会を変革すべく、「諸子百家」と言われる孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子などの学者・思想家が、儒家、道家、墨家、名家、法家などの学派をうちたて、思想変革の時代を創っていた。

 

 

そんな時代にあって、孔子は周の時代の古き良き社会の復活を理想とし、身分制度による秩序と、支配者が徳を持って社会を支配する仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは、孔子の思想を奉じて教団を作り、孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。孔子は3000人の弟子がいたといわれ、孔子の死後、注釈書や論文集、さらに新たな学説などが生み出され発展をつづけた。漢代に、国家の教学として認定されたことにより「儒教」が成立した。その後、朝鮮半島、日本、ベトナムなどにも伝えられ「儒教文化圏」を形成し、周辺国にも大きな影響を与えた。

 

 

 

(2)儒教の教義

 

孔子は乱世の中国に生まれ、武力による覇権争いを治めるためには、人倫と政治の中心に五常(仁・義・礼・智・信)のうちの、「仁」を据えることによって平和を回復しようとした。そのため儒教は「修己治人之学」(修身・斉家・治国・平天下)と言われ、倫理と政治の二つの面が連結しており、不可分であるとした。孔子の徳治主義は、家族愛を根本におき、これを国家にまで発展させて天下を治めようとした思想である。

 

 

この「仁」とは人間関係を表し、人間相互間の愛であるが、愛とは近親にあれば強く、遠くになるほど弱くなるものである。よって、序列のある差別愛のことを指し、宗教のような博愛や慈悲と言った無差別の愛ではない。つまり、儒教とは最初から差別を含んだものであり、皆が平等であるという思想ではなかったのである。

 

 

 

(3)朱子学の成立

 

 朱熹(11301200年)は南宋の儒学者で、朱子学の祖である。南宋(11271279年)は、中国の歴代漢民族王朝の中で最も軍事的には弱かった時代である。

 

 

 907年、繁栄を極めた漢民族の王朝・唐が滅亡すると、中国は「五大十国」と呼ばれる分裂の時代になる。この分裂状態をまとめ、960年再び統一王朝を建てたのが「宋」(北宋)である。しかし、宋は北方に位置する「金」という遊牧民族国家の侵攻を受け、1126年、開封を奪われ、皇帝(欽宗)一家をはじめ、皇族のほとんどと官僚数千人が捕虜として金に連行されたのである(靖康の変)。

 

 

 漢民族には、もともと自分たちこそ世界の中心に位置する文明人で、周囲の異民族はみな野蛮人だとする「中華思想」がある。それだけに野蛮人(北方遊牧民族)の捕虜となることは、このうえない屈辱であった。さらに悲惨な運命をたどったのが、皇族の女性たちである。彼女たちは、年長者は金の皇族や貴族の愛人にされ、年少者は、金の官立妓楼「洗衣院」に送られ上流階級を相手にする娼婦にされたのである。朱皇后はその屈辱的境遇に耐えかね、入水自殺している。(これは先に見た清の第2祖ホンタイジと朝鮮王国第16祖・仁祖の関係とまったく同じである。)

 

 

              

             皇帝を失った宋が南宋として生き残ることができたのは、欽宗の弟・趙構がたまたま開封にいないで難を逃れることができたからである。趙構は同年、江南の地に移り、臨安(現在の杭州)を首都に定めて帝位に就き(高宗 在位11271162年)、宋を復興させた(南宋)

 

しかし、華北一帯を占領し、都を燕京(現在の北京の近く)に定めた金は、さらに南宋を圧迫し続けたのである。

    

 

 このように宋が北狄と蔑んできた「金」に滅ぼされ南に押し込められた南宋も、引き続き金に圧迫され続けた。このように漢民族としては理不尽で屈辱的な時代に朱熹は生まれ、儒教を体系化し、朱子学を作り上げた。そのため朱子学は生まれながらにして、漢民族の優越性を説き、民衆を従順に従わせる支配階級の行動原理を説く下記のような排他的独善性を内包したものであった。

 

 

1.正当なる支配者(宋皇帝)は常に絶対の正義である

 

2.反抗するものは常に絶対の悪である

 

3.従って悪は滅ぼさなくてはならない

 

4.当然ながら正義である支配者に忠誠を尽くすのは絶対の善になる

 

 

 

孔子によって「仁」が重要視されていた儒教に対し、朱子学は「礼」を最重要視した。「礼」の関係はいわば上下関係であり、中国の皇帝が臣民を統治するために都合良く系統づけられた、支配のための教えである。儒教を必要とする国家は、国内が乱れ、国民が強い不満を持っていた。それを押さえ込むためにその儒教の教義を支配に利用したのである。

 

 

 

(4)朝鮮の朱子学

 

 朝鮮半島には、朱子学は高麗時代の13世紀末から入ってくるが、14世紀末にはじまる朝鮮王朝(李朝)時代には国家教学に採用され、16世紀には李退渓、李栗谷という二人の大儒学者が現れて、朱子学は朝鮮にしっかりと根を張ることになった。

 

 高麗時代に中国の官僚登用試験である科挙を導入した。合格者は両班として、中央においても地方においても政治権力を占有した。科挙の中心的な試験科目は朱子学であったので、朝鮮全土を朱子学という巨大で単一な文化ローラーで余すことなく圧し固め、見事なまでに均一にならしてしまった。そのため、伝統的に各地で展開されていた多様な文化も習俗もすべて、朱子学に基づいた倫理・価値観の型枠にはめ込まれていった。国家ぐるみの朱子学への強制的総宗旨替えが行なわれたといえる状態ができあがったのである。

 

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〔Ⅲ〕朝鮮朱子学の弊害

 

(1)  両班が朝鮮王国を支配した

 

両班文化の成立

 

両班は高麗時代に始まり大韓民国が成立するまで1000年も続いた制度であり、その間に内容も大きく変貌した。朝鮮独特の存在であり、単純に日本の武士階級や中国の士大夫と同じ支配的な地位を世襲する「身分」と言うことはできない。その定義もまた難しく、両班と常民の境界も流動的で固定化されていないのが特徴である。歴史的には主として朝鮮王朝時代に存在した支配的な社会階層であると理解するほうが適当である。

 

朝鮮王朝では科挙に合格し官職に就くと土地が与えられ、それが世襲されるようになって、政治上でも経済的にも支配者階級を形成した。村落社会では警察権も付与され、文化面でも知識人として郷村の指導的役割を担った。

 

15世紀の世宗の時代には朱子学で理論武装した両班が王権を支え、同時に宮廷文化の担い手となった。1446年の「訓民正音」によるハングルの創成は両班文化の大きな結実である。

 

 

 

激しい派閥争い

 

 両班には、都(ソウル)及びその周辺に代々居住する在京両班と、地方の農村部に代々居住する在地両班との二類型がある。前者は李朝成立に功績があった家系であり、代々多くの科挙合格者を出し、政府の高官につき、王家と婚姻関係を持った。両班全体から見ると数は少ない。後者の在地両班は数も多く、一般的に両班といわれるのは在地両班であるが、その幅もまた広い。

 

16世紀になると、両班は、建国以来の功臣で在京両班である勲旧派と、新興勢力で地方在住の両班である士林派という二派の争いが激しくなっていった。勲旧派による士林派に対する弾圧である士禍が続いたが、その厳しい政治的対立のなかから成長した士林派に与して高度の政治倫理を掲げたのが、李退渓と李栗谷の二人であった。二人が活躍した16世紀後半が朝鮮の儒学が最も高揚した時期であったといえる。二人はそれぞれ朱熹の理気二元論を発展させたが、李退渓は「理」を根源的なものと見なして主理説を唱え、李栗谷は「気」を重視する主気説を唱えた。

 

 二人はともに士林派に属し、朱子学の理念から勲旧派の横暴を批判してともに国の統治の具体的実践をも論じたが、李退渓は君主の修養を重視したのに対し、李栗谷は臣下の修養の重要性を説くという違いもあった。その違いは朝鮮朱子学の二大学派となり、16世紀末には士林派内部の派閥争いである党争と結びついて深刻なものになっていった。

 

このように16世紀までに儒教は政治理念として高度に理論化されたが、中国で明が滅び、満州人による清が成立すると、朝鮮の朱子学者は大義名分論の立場から、朝鮮こそが儒教の正統を継承しているとする小中華思想が生まれた。しかし二大学派に連なる両班はいたずらに観念的な教義論争や政争を繰り返すだけで、新しい時代への対応能力を次第に失っていった。

 

 

 

両班は体を動かさない(労働蔑視)

 

朱子学は、聖人になることを学ぶ学問である。聖人とは極限的な主体性を獲得した人 間である。静坐という修養により聖人になれると説く。

 

竹椅がこわれた時、竹椅の「理」(本来あるべき姿)を回復すべく、竹椅を修理することは、普通の人でもできる。しかし、すべての存在にあるべき秩序をもたらすことは、聖人にしかできない。

 

このような教義から、両班の生態は日本人にはまったく考えられないものになった。「体を動かさない」のである。もともと優れたアタマを持っている人たちだから、そのアタマを働かせて静坐して聖人に至る努力をするのが両班の習性になった。

 

 

その結果、走ることがなくなった。自分で吸うタバコのキセルさえ自分では持たない。学生は学校へ行くとき本を持たず従者に持たせる。旅行をするとき従者に引かせた馬にのるだけ。(中国では大人が走ることはないと聞いたが、これも儒教が原因かな?)

 

 高宗(朝鮮王朝の第26代国王)が米公使館を訪れたとき、公使館員が庭でテニスをしているのを見て、「あのようなことをどうして奴婢にやらせないのか」と言った。運動まで蔑視していたのである。

 

社会の指導者がこれだから、一般庶民はどうなるか。労働蔑視である。職人の地位はものすごく低く、モノ作りの概念をなくした。労働する人は最下層の人である。朝鮮が鎖国を解いて開国したとき、朝鮮半島には木材を筒状に組み立てる技術がなく、樽がなかったしクルマもなかった。水や酒を運ぶ場合は、重い土の瓶に入れて人が背負って歩いて運んだ。人々は白い服しか着られなかった。染料も染める技術もなかったのである。衣類を縫う針もなく、せいぜい衣類に穴をあけるための粗雑なものだけ。

 

朝鮮が開国して初めてその地に足を踏み入れた日本人が見たものは、「これは日本の平安時代以前の社会ではないか」というほど貧しい社会だった。この停滞が朝鮮王国500年のすがたであっった。

 

 

(2)  厳しい身分制度

 

厳しい身分制度を敷いたのは、人間にはそもそも序列があり、それを守ることによって安定した社会が生まれるという儒教的な考え方があったからである。

 

富を奪う身分と奪われる身分に二分でき、奪われる側は甚だしい劣悪な生活に追い込まれ、庶民文化・教育・伝統・芸能・職人の技術・労働意欲などが全く育たなかった。

 

 

地方長官や中央役人が全ての権限を握り、身分が下の者から富を奪う為にその権限と利用していた。少数の支配者にとっては理想国家であろうが、支配される大勢の人たちにとっては劣悪非道の暗黒国家であった。

 

日韓併合前の朝鮮半島の身分制度 は大きく4つの身分に分かれていた。

 

1、両班

2、中人 : 外国語・医学・天文学・法律学など特殊技術を学んで世襲した。

3、常民 : 農・工・商に従事する人を言うが、その大部分は農民。国家に対して租税・貢賦・軍役など各種の義務を負担したうえに、地方官や郷吏などの搾取対象になって、その生活は一般的にとても悲惨だった。

4、賤民 : 商工業に従事する人。両班に所有され特に職業を持たない奴婢。

彼らは家畜と同じで、所有者は生殺与奪の権を有し、売買、略奪、借金の担保、贈与などの対象になった。奴婢は公賎と私賎の2つに大別されていたが、その中にも多くの階層(七般公賤・八般私賤)があった。粛宗 16 (1690) 年の大邱地方の統計では、奴婢の人口は全体の約 43%,戸数は 37%であった。賤民は生活基盤や土地を持たないため、島や村ではなく多くは都市部に住んだ。首都漢城の場合は人口の70%以上が奴婢であったといわれる。

 

 

奴婢は主人の財産であるため、主人が殴っても犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具にしたのであった。奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、ひどい場合は打ち殺されることもあった。朝鮮王国末期には、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった。

 

 

賤民のなかで白丁が最下層とされ、目印として平壌笠と呼ばれる笠を被って明示することを義務づけられた。

 

朝鮮半島で白丁が受けた身分差別は、以下のようなものである。

 

1、族譜を持つことの禁止。

2、と畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工以外の職業に就くことの禁止。

3、常民との通婚の禁止。

4、日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。

5、瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。

6、文字を知ること、学校へ行くことの禁止。

7、他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。

8、名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。

9、姓を持つことの禁止。

10、公共の場に出入りすることの禁止。

11、葬式で棺桶を使うことの禁止。

12、結婚式で桶を使うことの禁止。

13、墓を常民より高い場所や日当たりのいい場所に作ることの禁止。

14、墓碑を建てることの禁止。

15、一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

 

これらの禁を破れば厳罰を受け、時にはリンチを受けて殺された。その場合、殺害犯はなんの罰も受けなかった。白丁は人間ではないとされていたためである。

 

現代においても、韓国では障害をもつ者に対して、平気で蔑みの言葉を投げるから、障害者にとっては厳しい国であるそうである。政治家でさえライバルの政治家をこきおろすときに、相手や相手の家族が身体障害者であれば、公衆の面前で堂々と指摘するほどである。

 

 もう一つの典型例が、不美人にたいする差別である。たとえば、適齢期をすぎても未婚でいると、器量が悪いから結婚できないという意識で見る社会である。女性は外見だけで価値を判断されるから、韓国の女性は物心がつくころから「外見の美」というものに特別の関心をいだくようになる。

 

 このため、韓国では顔の整形手術がさかんに行われている。夏休み期間中や卒業間近となると、美容整形にはしる女性が多い。外見から社会の差別対象とならないように、40万円ほどの金をはらって手術する者がきわめて多い。

 

 

(3)極端な男尊女卑

 

性理学を統治理念とした朝鮮王朝はすべての生活風習も性理学の倫理に従うようにし、性理学を定着させるために内外法を強化した。この法律は男女間の自由な接触を防ぐために女性の活動を規制する法律である。

 

17世紀から女性は財産の相続権も失い、すべての権利は息子に受け継がれる父系中心の世の中になる。そして女性は結婚しても息子を産めないと、離婚させられてしまうという差別を受けるようになる。17世紀以後、女性の社会的地位は低くなり差別と抑圧の中で暮らすようになる。そのため、この時代の女性の最も大きな美徳は服従であった。

 

従来女も農作業をしたが、女が外に出ることを制限され、家の中で織物などの仕事をすることが普通になった。 李朝が終わるまで、多くの女が50代になるまで家の中に幽閉されていた。例外は目上の者へのあいさつと墓参りのみとされた。

 

18世紀後半になると長男優待・女子差別の相続方法が定着する。また儒教思想を定植するために、仏教と女性の離間を進め、寡婦の再嫁禁止法制化された。嫡子確保のため、早婚、夫幼婦長、蓄妾(ちくしょう)も強く励行された。

 

 

「近代的家族」のように、夫婦から出発し、子どもの出産とともに拡大するのとは異なり、儒教的家族のばあいは、妻と女子を除く父と子の関係が主軸となる。父 →長男→弟という構図のなかで、妻と娘は男性成員の「召し使い」のような立場である。女性には男性以上の厳しい倫理規範が適用され、従順こそ女子の最高の「徳」であった。

 

『大戴礼記』本命篇に「三従七去」が説かれている。

 

「三従之礼」

 

「家に在りては父に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う」

 

 

「七去之悪」

 

1.不順鼠姑 : 夫の父母に従わない。

2.無子 : 男児を産まない。

3.淫行 : 夫以外の男性と話す、眺める。

4.嫉妬 : 夫が妾を持つことを嫉妬する。

5.悪疾 : 重い病にかかる。

6.口舌 : 口論したり他人を誹謗する。

7.盗竊 : 盗み。

 

 

 家系を存続させるために長男優遇がいき過ぎたため、女は子供を産む道具として扱われ、にわかには信じられないことも行われた。

 

18世紀以降、朝鮮の女性向け民族衣装「チマチョゴリ」に変化が起きた。この頃から「長男を生んだ女性は乳房を露出する」ことが習慣化したのだ。「乳出しチョゴリ」である。

当時の朝鮮の男尊女卑的な思想では「長男を生まない女性に価値はない」との考えが支配的なためかこのような風習が広まったのだ。当時の朝鮮人の女性はこの衣装を「長男を生んで社会的義務を果たした」として誇りに思っていたのである。この習慣は1950年代まで続いた。 

 

 また、嫁に出す娘が妊娠できることを確認するため、父親が娘と性行為をする、あるいは「種男」という男に娘を犯させ妊娠させる「試し腹」が行われたのである。「この通り妊娠できる体である」ことを証明してから、結婚させたのである。そこで生まれた子は賤民とされた。自分の娘を血縁の近い男(兄や叔父)に妊娠させて、妊娠できる女と証明させて 嫁がせる儒教思想が暴走した悪しき習慣だということである。

 

 

(4)先祖崇拝と煩雑な祭祀儀礼

 

先祖崇拝の死生観(子孫の血の中で生きていく)

 

「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」といわれるように、日本では、親への孝と主君への忠との板挟みで苦悩することがあったが、朱子学では孝が忠に優る徳目とされた。それも日本人が考える親孝行とは次元が違うほどの絶対的な規範である。

 

 

日本では「孝行をしたい時には親はない」と言われるように、親孝行は親が「生きている時だけ」に限定されるものである。ところが朝鮮では、父親、母親が死んでからも生きているときと同じように敬い、大切に扱う。それが祭祀である。しかも、父母に限定されることなく、4代前まで祭祀をするというのが基本的なルールである。4代前というと、ひいひいおじいさんである。

 

 

 朱子学では、この「生命の連続性」は「気」の連続性として説明される。そして、「気」のバトンタッチをする資格があるのが男子のみとされる。男系の断絶は、その男系の全祖先を殺すことにもつながる一大事になるのだ。なぜ、男性だけがリレー走者なのか。「男は種で、女は畑である。農作物の種類は、畑でなく、種で決まる」と説明する。そんなもんですか。

 

 

だから自分の死後に祭祀をしてもらうには、男子を生まなければならない。自分はいつか死ぬのだが、自分がご先祖さまにやってきたように、自分も祭祀をしてもらうことによって永遠に生きられるのだ。体は亡くなるが、子孫の血の中で生きていくのだという生命観であり死生観である。

 

 

それを日常生活で実践するために、家の敷地内に祠堂を設け、父母や祖父母、故人となった家族の神主(しんしゅ)(位牌)を祀るのである。儒教では人が死ぬと魂と魄に分離され、精神すなわち魂は天に帰り、肉体である魄は地に帰ると考えた。それで、魂を祀る祠堂と魄を祀る墓をそれぞれ造って先祖を崇拝するのである。とくに死んだ先祖の魂のこもった神主を作って祠堂に祀ることにより、祖先が神主へ憑依して、同じ敷地のなかで 子孫とともに「生きて」いるのである。

 

 

家族 は、神主を含む一つの共同体である。一方は生きた存在であり、もう一方は、「魂魄」として存在している。子孫たちは、家に出入りするたびに祠堂に挨拶する。おいしい食べもの、新しいもの、めずらしいもの、貴いものは祠堂に先に捧げた後、子孫たちが分けて食べる。先祖たちは子孫からかけ離れて存在するのではなく、一緒に生活しているのである。

 

 

 

煩雑な祭祀儀礼が国民生活に浸透

 

朝鮮王国は、朱熹の『文公家礼』(冠婚葬祭手引書)を制度として取り入れ、朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を強制的に一律に儒式に改変した。李退渓に始まり、17世紀の宋時烈を経て、19世紀の李恒老によって集大成された、朱熹の文集全巻にわたる精密な注釈の仕事も、他の国では例をみない事業であった。

 

 

 朱子学では、法秩序の実践者たる官僚層が、同時に宗族(血縁共同体)秩序における模範的実践者であることを追究していたから、祖先祭祀の儀礼はきわめて重要な意味をもっていた。

 

 

すなわち、祖先祭祀は儒教の実践倫理規範の根底をなす「孝」と同一視され、子孫の祖先に対する心情的な一体化を説明するために、理気論に基づく「合理的」な説明が導人されたのである。

 

中央のみならず地方においても在地に基盤を置いていた在郷両班によって、埋葬方式、3年喪、家族祭祀、祖先崇拝や礼法などが一律に強制的に民衆に教化されていった。

 

 

葬儀は、韓国では土葬である。儒教では遺体を焼いてはいけない。昔のお葬式では、麻布のぼろぼろの衣服を着ていた。「自分が一生懸命にお父さん、お母さんを養わなかったためにお父さん、お母さんが早く死んでしまった。自分はもう着る物なんかに構っていられません」という象徴なのである。つえをつくのは、「悲し過ぎてお天道様なんかとても見ていられない」という意味である。お葬式で激しく泣くのも儒教で決められている。(北朝鮮で前の将軍様が死んだとき、韓国のセウォル号沈没のときを思い出す。)

 

 

命日についても、例えば8 5日が祖先の命日だとすると、84日中にスタンバイしておいて、85日の深夜零時になったらすぐに祭祀を始める。霊が帰ってくるという前提で行われるので、先ず霊が入ってこられるようにドアを開ける。生きている人を迎えるのとまったく同じように振る舞う。お酒をつぎ、祝文を読み、「ご飯を食べてください」と言って参加者は部屋を出る。その後参加者で食事をする。このように細々した祭祀内容がすべて決められていて、その通り実行しなければならない。

 

 

 忙しい現代の生活のなかにおいても、祭祀に参加しないことは難しい。有能な大臣が、自分の親の喪中に仕事のため参加できなかったことを、不孝であると咎められて失脚するようなことも起こった。

 

 

儒教の標榜する「徳治国家」は、法律や刑罰をもって民を治めるのではなく、生活の隅々にいたるまで、儒教精神を徹底し、基本的対人関係のルールを定め、人々のその遵守を強要したのである。

 

 

 司馬遼太郎は、漢民族の古代社会を原型として生まれた儒教が、李朝時代に、言語も人種も歴史も異なる朝鮮に導入され、その結果として朝鮮人の観念先行癖やそれがための空論好きという傾向にゆがめられたと観察し、その「ゆがめ役」が在郷の両班階級であった考えた。「人民を儒教へ儒教へと飼いならしていく調教師として、在郷の両班は必要であったのであろう。その意味では日本の武士階級とはまったくちがうものである。」<司馬遼太郎『街道をゆく2 韓くに紀行』1978 p.158-159 朝日新聞社>

煩雑な祭祀儀礼が国民生活に浸透

 

 

(5)公的義務より家族中心主義

 

 先に見たように朱子学では「忠」よりも「孝」を人倫の根本とした。そのため、日本人にはとうてい考えられないようなことが、当たり前のこととして実践されるようになった。

 

例えば、自国の軍隊が外国軍と戦わねばならず、まさに母国が危急存亡の(とき)にあるとした場合、司令官は当然ながらプライベートな事情は一切考慮せず、たとえ子供が病気であっても国のために戦わなければいけないというのが、世界のほとんどすべての文明の常識といってもいいだろう。それは国の主権者に対する忠誠を示すことでもあり、また軍の司令官として公的義務を果たすということでもあるからだ。

 

ところが儒教では、もしその司令官の父親が重病にかかったとすれば、彼は直ちに任務を放棄して父のもとに帰って看病しなければならない。これが儒教文明における絶対的な掟であり、たとえ皇帝ですら、この司令官の行動を批判することは許されないのである。

 

絶対的な権力を持つ皇帝ですら、父親の病気を理由に戦線離脱する司令官を引き留めることができないほど「忠」よりも「孝」が大事である。ということは、社会において公的義務を果たすより私的な父親の病気や先祖の祭祀儀礼のほうが優先されるということである。官僚も軍人も、父親が亡くなると公職を辞し、故郷に帰って数年間の喪に服することが当然とされるに至った。

 

 

親族への貢献こそが最大の善

 

 201212月に行われた韓国大統領選挙において、朴槿恵候補は「私には面倒をみる家族も、財産を譲る子供もいない。国民が私の家族で、家族のためにすべてを捧げる母の気持ちで国民に尽くす」と力説していた。

 

 韓国では、歴代大統領のファミリー汚職によって、親族か本人が有罪となっている。この悪しき伝統が今度こそ断ち切れると期待したことが、初の女性大統領誕生につながった。

 

11~12代 全斗煥(198088年):光州事件や不正蓄財を追及され、死刑判決を受けた(減刑の後、特赦)

13代 盧 泰愚(19881993年): 数百億円の不正蓄財により退任後に逮捕

14代 金 泳三(19931998年):次男があっせん収賄と脱税で逮捕

15代 金 大中(19982003年):息子3人が収賄で逮捕

16代 盧 武鉉(20032008年):実兄が収賄で逮捕、当人も追及を受け自殺

17代 李 明博(20082013年):在職中に側近、兄が逮捕

 

 韓国では、朴槿恵大統領の前の大統領は6代続けて一人の例外もなくファミリー汚職で親族か本人が有罪となっている。まさに異常事態である。韓国は複数政党制で、政権交代も行われている。前の大統領がファミリー汚職で失脚すれば、当然次の候補はファミリー汚職根絶を公約に掲げて選挙運動を進める。それでもこのように汚職が連続してしまっている。

 

「親族も子供もいない」とクリーンさをアピールして当選した朴槿恵大統領も、20173月、親友の崔順実被告(60)が政治的便宜供与と引き換えにサムスングループなどから巨額賄賂を受け取るのを支援した疑いがかけられ、任期中に逮捕されてしまった。

 

 

一体なぜ最高権力者による汚職を根絶できないのだろうか。それは「孝」という家庭内道徳が公的道徳に優ると考える朱子学の教えが根強く社会に蔓延しているからである。親族の一人が大統領になると、少しでも血のつながった親族は大統領に「我々親族に便宜を与えよ」と要求する。例えば、公共工事の対する利権をよこせ、うちの息子を政府の高官として採用せよ、などである。韓国でも、儒教の本家である中国でも、親族からの要求を断ると、人間としての道徳を持たない背徳者とみなされてしまう。「孝」は「公」に優先するからである。

 

一国の指導者がこれである。あとは推して知るべし、社会全般が「親族への貢献こそが最大の善」という考えになり、自分の親族の繁栄を願うあまり、他人はどうでもよいとなる。この自己中心的な考え方に、中華思想が加わって国際問題では極端な「自国中心主義」となる。日本人が辟易するほど執拗に繰り返される「慰安婦問題」「徴用工問題」などの根本原因が見えてきたように思う。

 

 

 

(6)経済発展を阻害した商業蔑視

 

 「商人」という言葉は、もともと差別語である。中国で存在が確認できる最古の王朝殷が周に滅ぼされた時、多くの殷の民が流浪の民となった。定住地を持たない彼等は、農業や工業に従事することができず、止むを得ず交易をするようになった。殷というのは国名だが彼等の民族としての名は「商」といったので、こうした定住地をもたず交易に従事する人を「商人」と呼ぶようになった。

 

 儒教を確立した孔子は、殷を滅ぼした周の体制を理想化したこともあり、商業への蔑視は遺伝子のように儒教を通して中国文明に受け継がれた。朱子学においても、商人は農民や大工などの職人に比べて一番身分の低い階層とされた。農民や職人は人間社会にとって必要欠くべからざる食糧や製品を作るが、商人は何も作らず、人が汗水たらして作ったものを、自分たちは汗もかかずに右から左に動かして楽に儲けている悪人だ、ということである。

 

 朱子学が庶民末端まで浸透した朝鮮王国でも、商人は士農工商の身分制度の最下層に位置づけられた。その上先に見たように、物を作る仕事も賤業とされていたので、工業も発達しなかった。工業は農業から分業しておらず、多くの場合農村社会の家内副業として自給自足を目的に手工業が行われる程度だった。農民は、農産物と同時に日用品の原料も一緒に生産して、布を織ったり、家具や農機具など日常生活に必要な物品を作っていた。

 

日常生活の必需品を物々交換する程度の経済体制が中心で、民間では一般的に場市(市場)を通じて商業活動が行われた。場市は、普通5日ごとに1回ずつ開かれ、農民・漁夫たちが集まって来て品物を交換した。

 

店舗をかまえているのは、ソウルにあった六矣廛(りくいてん)という絹織物、綿布、綿紬、紙、苧布、塩魚をあつかう6つの特権商人がおもなもので、その他は負褓商(ふほしょう)という行商人による行商が行われていた。彼らはその地方の産物以外の商品を樽が無いので重い甕などに商品を入れ、車が無いため背負子で背負って、苦労して各場市を歩き回りながら売っていた。

 

商品生産がほとんど行われなかったので、貨幣経済も発達しなかった。交易媒体としては、米・麻布・綿布が用いられた。第4代世宗(在位1418-50)代に「(ちょ)()」(コウゾの紙幣)と「朝鮮通宝」を併用したが、通貨価値の低下と貨幣に対する需要および銅生産の不足から鋳造が停止された。その後貨幣を鋳造したり、17世紀半ばには明から貨幣を輸入したが、社会に広く使われることはなかった。

 

1894年に朝鮮各地を旅行したイギリス婦人イザベラ・バードは、1ドル(=1円=0.2ポンド)が葉銭3200枚に相当し、100ドル運ぶのに馬1頭または男6人がかりで閉口したと書き残している。

 

信じ難いことであるが、朝鮮王国を通じて安定した貨幣制度が普及することはなく、民衆レベルではほとんど自給自足か物々交換の経済までしか発達していなかった。

 

その影響は、朝鮮半島が近代化して100年がたつ現在にまで及んでいる。2011年の韓国10大財閥の売り上げ高が約946兆ウォンに達し、韓国のGDP76.5%に達した。その財閥が担う韓国の雇用割合はわずか6.9%。韓国人勤労者の93%は残りのGDPの枠内で生活していることになる。大企業を支える堅実な中小企業の育成がなされていないのである。失業率は10%を超え、若者の学歴競争は激しさを増している。

 

北朝鮮にいたっては、一国の指導者が国民の幸福を願って行動しているようには全く見えないし、草の根を食べてでも核ミサイルを完成させると血眼になっている。狂気の沙汰である。気の毒なのは国民である。

 

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(7)歴史歪曲

 

韓国の大統領や政府高官は、折ある毎に「日本は正しい歴史認識を持て」と要求する。最近の「慰安婦問題」にしても「徴用工の補償問題」でも、「正しい歴史認識ができないのは、韓国ではないか」と私は苦々しく思っている。これについて実に説得力のある解説に出会ったので紹介したい。

 

 

井沢元彦『逆説の日本史14 近世爛熟編』小学館文庫 2011年 

 

497)世に「真・善・美」という言葉があるが、学者というものは、善(正義)よりも真(真実)の追及に重きを置く、多くの人がそう思っている。しかし、儒学に関しては違うのだ。

 

 儒学というものは、真実より理想すなわち厳しい言葉で言えば虚構を求めるもので、われわれ日本人が、いや世界の人々が一般的に理解している「学問」というものとは実は大いに異なるのである。

 

 だからこそ儒学(学問)というより儒教(宗教)なのだ。一般に中国人は儒教という言い方をあまり好まないが、彼等にはあまり宗教という自覚がない。しかし、儒教が「真」よりも「善」や、その結果としての「美」を求める宗教である以上、それは他の学問には無い独立した特徴を持つようになる。

 

 それは、ずばり歴史歪曲なのである。

 意外化もしれないがこれが事実だ。

 

 そもそも儒教には孔子の頃から歴史歪曲があった。

 

 孔子は、乱世をおさめるためには周王朝の以前の昔に帰れ、と主張した。つまり昔はよいと言うのである。尭・舜・禹のような聖王がいて理想の政治をしていたのだから、その時代の政治に戻ればよいと言うのである。しかしそうした伝説上の理想的君主が本当に理想的な人間だったか、実は確証は何も無いのである。確実な証拠もないのに、単なる伝説(神話)だけを根拠とし「過去はこうだった」と決めつけてしまうこと。つまり本当にどうだったか(真)を問題にするよりも、過去はこうに違いない(善あるいは美)として決め付けてしまう。これは証明不可能な概念(たとえば「神」、この場合は「聖王」)を「信仰」で断定してしまうことで、まさに宗教そのものである。

 

 もし、仮に尭が悪王であったという証拠が見付かっても、孔子は決してそれを信じようとはしなかっただろう。キリスト教徒が「イエスは人間だった」という「証拠」があったとしても絶対に信じないのと同じことだ。

 

 そして、もし仮に、この伝説的な聖王たちつまり「先王」が、本当に立派な人たちであったとしても、それは古代の極く小規模な(むら)といっていいような小世界で実現したことで、後の世のように人口も多く国の規模も大きいところではそんなことは初めから無理だ―そういう主張をする人々が後世に出た。といっても孔子の時代からみての「後世」であって、今から2300年近く前、ちょうど始皇帝が中国を統一する直前のことだ。

 

 韓非(あるいは韓非子)という、法家、つまり法律やそれに基づく制度によって世の中を治めていこうという人々にとって、儒教の徒の主張「昔はよかった。昔に帰れ」は、あまりにもバカバカしい主張であった。

 

 韓非はそれを「守株」というたとえで批判した。

 

 御存じだろう。北原白秋作詞で童謡『待ちぼうけ』にもなっている話だ。ある日農夫が働いていると、森から飛び出したウサギが木の切り株に当たって「ころり」と死んでしまった。つまり、農夫は何の苦労もなくタダでウサギの肉を手に入れたわけだ。それからというもの農夫は真面目に「せっせと野良かせぎ」をするのをやめてしまい、毎日、切り株を見張って、つまり「守株」して暮らすようになった。そこでせっかくの畑は荒れ地になってしまった。

 

 読者の皆さんはこの男をどう思うか? 「なんてバカな奴。そんなウマイ話が二度とあるわけがない」、そう考えるのではないか?

 

 韓非もそう考えた。だから自著にこの話を書いたあと、次のように結んだ。

 

 今欲以先王之政 治当世民 皆守株之類也

 今、先王の政をもって当世の民を治めんとするは、皆守株の類なり

 

訳すまでもないだろうが、あえて訳せばもちろん次のようになる。

 

「昔はよかったなどと言って、その方法で現代の世を治めようなどと考えている者(儒教の徒)などは、みんなこの大バカ者の農夫と同じことだ」

 

 

しかし、儒学者は、いや儒教の徒はそんな痛烈な批判を浴びても決して屈しはしなかった。なぜなら「先王の政」が正しかったということは「歴史的事実」というよりは「信仰」だからである。

 

儒教には「開祖」の孔子の時から、このような歴史歪曲体質があったのだが、その遺伝子は不幸なことにさらに一段と強化された。

 

儒教の「中興の祖」であり、朱子学(実際には朱子教と言った方がいいのだが)の開祖である朱子(11301200)は、中国の漢民族の国家の中でもっとも軍事的に弱かった南宋の時代に生まれ育った。だから、朱子学は司馬遼太郎の指摘するように、「真」を追究する学問ではなく「善と美」を求める「正義体系(イデオロギー)」になってしまった。イデオロギーというのは、一種の「宗教」であることは言うまでもない。

 

 

504)儒教にはもともと歴史を歪曲する性質がある。すなわち、「実際はどうであったか」よりも「どうあるべきであったか」が問題となる。もともとそういう性質であったところに、朱子がさらに排他的・独善的な性質を強化してしまった。

 

 それはこういうことだ。

 

 儒教の根底には、中国こそ世界の中心で一番優れた国家である、という中華思想がある。極めて傲慢な思想だが古代においては事実でもあった。確かに、諸葛孔明が石造りの城の中で現代とほとんど変わらないような中華料理を食べていたころに、日本の邪馬台国女王の卑弥呼は掘っ立て柱の「宮殿」に住んで、ポンチョのような貫頭衣をまとっていたのだから。

 

 しかし、まさに朱子の生まれ育った宋王朝の時代には、その「中華民族(漢民族)」の常識では有り得ない事態が起こった。金や蒙古(後の元)など、漢民族よりはるかに野蛮な民族が漢民族を圧迫し支配するという事態だ。

 

 こうした「有り得ない」事態の中で、本来「存在論」「認識論」として哲学的に深められたはずの朱子学は、「歴史の現実」から目をそらし「有り得べき歴史」、つまり「美化」といえば聞こえはいいが、真の歴史を歪曲した歴史「現実とは違う歴史」を「事実」として求めるようになってしまった。

 

 その典型的な例が現代の韓国である。

 

 韓国という「小中華」から見れば日本は野蛮国であり、本来なら日本が韓国を支配することなど「有り得ない事態」である。しかし、日本が韓国を植民地支配したことは事実で、この歴史上の事実はいまさら変えられない。

 

 では、そんな「有り得ない事態」が実際に起こったことを、「歴史上」どう説明すればよいか?

 

 日本という国家が、あるいは日本人という民族が、まさに「忠臣蔵」における吉良上野介のように極悪非道で狡猾で残虐だったことにすればいい。そうすれば、文明人で正義の士で優秀な韓民族が支配されてしまったのも、止むを得なかった、ということになるからだ。

 

 当然、日本の植民地支配には、韓民族にとってプラスになったこと、意味のあったことなど一切なく、日本人は常に韓国人を弾圧し搾取していた、という「歴史」にしなければならなくなる。

 

 もちろん、韓国にも西洋流のまともな歴史学を学んだ良心的な学者もいる。その中の一人、ソウル大学・()(ヨン)(フン)教授は、歴史学者として当たり前の「史料を分析する」という、まっとうな手法で、植民地時代の日本の主に農民政策を調べた。その結果、一般に言われているような搾取はなく、むしろ日本の統治は極めて穏当なものであったという調査結果を発表した。

 

 史料の検証によって専門家が事実を確定したこと。これにはさすがの韓国のマスコミも「非難」は難しかった。だが、まったくなかったわけではない。冷静で公平な歴史研究に、しばしば「親日的(つまり悪人)」という罵声が浴びせられるのが、現代の韓国の病弊である。

 

 韓国では、当たり前のことでも、それがマスコミによって「親日的」と判断されると、社会的地位を失いかねないような厳しい非難にさらされる。その中、李教授は敢然として真実を発表した。

 

 だが、その結果、真実を追求することよりも、歴史を「美化」することに専心する韓国マスコミの執拗なマークを受けることになった。

 

 

 結果はどうなったか。李教授はいわゆる「従軍慰安婦」問題でのテレビ発言を「歪曲」して解釈され、「元慰安婦」の前で土下座させられた。マスコミの「公開処刑」にあったのである。これで「日本の植民地支配には美点もあった」という歴史の真実は、ますます闇に葬られるだろう。まさに「一罰百戒」。若手の研究者は「真実なんて言うべきではないんだな。マスコミに迎合しているのが一番だ」と思っただろう。           (以上引用終わり)                                   

 

 

 

 韓国の中学生、高校生は国定の歴史教科書で歴史を学んでいる。しかしそこには事実に基づかない自国に都合のよい歴史がたくさん記述されている。韓国のことを調べていると私には信じられないことがいくつもあるが、これもその一つである。教科書でウソのことを教えるなんて、まったく考えられないことであるが、これに関して分かりやすい解説があったので紹介したい。

 

 

韓国の歴史はファンタジー

 

宇田川啓介『韓国人 知日派の言い分』飛鳥新社 2014

 

100)言論や学問の自由を標榜しながら、歴史を現在の統治の都合からのみ見定め、過去を「遡及的に創作する」民主国家がある。韓国である。例えば、韓国の国定教科書によれば、先の大戦末期、「光復軍」なる朝鮮人抗日部隊が、日本軍と戦って独立を獲得したことになっているが、そんな記録はどこにもない。1945815日に日本が敗戦を受け入れ、米軍が朝鮮半島に軍政をしいた97日までの約3週間、治安を維持していたのは日本であり、独立戦争まがいのものすら起きていない。にもかかわらず独立戦争を戦ったと教科書では教えているのだ。これは歴史ではなくファンタジーである。

 

 

 

 日韓併合により、韓国の富のすべてを収奪され、近代化が遅れたとか、20万人の処女が日本軍に強制連行され、性奴隷にされたとかいう法外な話は、すべてファンタジーである。この「現在の都合で捏造された」歴史は想像の産物であるから、当然のこととして過去との間で齟齬を生む。その齟齬を、驚くべきことに韓国人は「信じろ」という無手勝流で克服する。従って反論は無効である。都合が良いことに韓国は戦後、漢字を捨て、ハングル文字一辺倒の社会に移行した。だから過去の史書や文物を読むことができるのは一部の知識層のみになってしまった。イギリス人のイザベラ・バードが「悪政はこれ以上ひどくなりようのない状態」と呼んだ李朝末期の貧困や差別も、ほとんどなかったかのごとく語られる。こうした韓国の歴史を筆者は「こうありたかった歴史」と呼ぶ。日本政府が「河野談話の再検証」というと「火病」にかかったかのように反発するのも、そこに理由がある。歴史に学ぼうとしないのは韓国人自身なのだ。

 

 

小さな事実よりも大きな真実

 

241)韓国のこうした態度(法治国家ではなく情治国家)をおかしいと思っているのは、日本人だけではないのです。しかし最近では、中国人がやってきて反日を煽るから、昔の清国と李氏朝鮮のように、連携して日本を悪者にし、自分たちの歴史を否定する行為に拍車がかかっている。

 

 不思議なのは、「戦時徴用工」問題でも靖国神社参拝でも、韓国人は、消すことのできない過去の事実を自ら否定してしまうが、なぜそうなるのか知り合いの大学教授に尋ねると、「韓国のことわざに〝小さな事実よりも、大きな真実〟というのがある。」との答えが返ってきた。

 

 日本にも似たような言葉がある。例えば「物事の裏を見よ」とか「行間を読め」は、表面に出ていない意味を忖度しろということであり、その意味では「小さな事実よりも、大きな真実」と似ている。しかし日本では、あくまで事実の奥に真実があるとされているのであり、事実を無視し、あるいは事実を隠蔽する意味ではない。事実関係の先に見えない真実が隠されているという感覚だ。

 

 これに対して、韓国人は真実があれば事実を無視してもかまわないというのである。もっといえば、「自分たちの想定した真実が大きな目標である場合は、小さな事実は否定してかまわない」という意味なのだ。日本では「事実」と「真実」は同一線上にあると考えられているのに対して、韓国の場合、「事実」と「真実」は別々な概念の下に存在し、場合によっては対立的な立場になるというのである。(以上引用終わり)

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(8)朱子学一尊の排他独善性

 

 

統一新羅時代や高麗時代の仏教は、執権者たちの宗教としてその文化的・政治的全盛を極める一方、数々の弊害も顕著になってきた。高麗末に至ると仏教は、政治的・経済的な腐敗の温床になってしまった。一部の新進士大夫や革新的な武将たちから仏教に対する批判の声も高まってきていた。 そして、排仏政策を取るべきであるという世論が、形成されるようになった。

 

仏教徒粛正の論争における中心的人物は、鄭道傳である。彼は、李成桂 (朝鮮王朝・太祖)の政治顧問として、新しい朝鮮王朝の政治構造を策定するにあたって中心的な役割を果たしていたが、『佛氏雜辯』を著わし厳しい仏教批判を展開した。

 

鄭の批判は、徹底的かつ体系的であり、その時代における禅仏教の実践の全てにわたるものであり、仏教教理には本質的欠陥が存在する事を提示することを目的とした。そして仏教という教団について、本気で縮小に取り組み、可能であれば永久にこの信仰体系全体の活動に終止符を打つ事を目指した激しいものであった。

 

 

 

儒教者たちに支持された将軍・李成桂 1335-1408)は、1392 年クーデターによって、

 

高麗国王に即位した。彼はもともと熱心な仏教信仰者であり、建国当時は無学自超という僧侶を師としていたので、建国に功労のあった儒学者と仏教勢力との間で激しい権力闘争が繰り広げられることになった。しかし、太祖李成桂自身も、高麗仏教の腐敗堕落ぶりをよく知っていたので、次第に抑仏、廃仏政策がとられるようになった。

 

その後朝鮮王朝の代を重ねるごとに仏教に対する弾圧は激しさを増していき、三代目の国王太宗(14001418)の時には、高麗朝の時代に1万以上の寺院があったのが、この時期に何と242寺までに減らされている。さらに寺院に属する、土地や奴隷などを続々と没収していった。

 

次の国王世宗(14181450)の時には、全宗派を禅教二宗(禅宗と華厳宗)に統合して、それぞれ18寺院だけを残して、残りの寺を廃寺とした。

 

九代目の成宗(14691494)の時には、出家禁止令が出され、十一代目の中宗(15061544)の時には、国中の仏像を没収し、溶解した上で武器をつくるなど非道な行いをしている。この頃になると、僧侶は漢城(ソウル)から出ることが許されず、労役に付くことを強制され、奴隷と同じ賤民とされた。

 

 

 朝鮮王朝成立から150年間に「そこまでやるか」というほど徹底して仏教弾圧を継続した。当然ながら、その間、朱子学を試験科目とした科挙の合格者・両班は増え続け政権中枢から社会の隅々に至るまで、朱子学一色に塗りつぶされていく。この一点を見ただけで朱子学一尊排他独善性が鮮明に理解できる。

 

 

 仏教の説く「万物に生命が宿る」「殺生を戒める」「万人平等」「輪廻転生」「永遠の生命」などを完全に否定し、人々の自由な生き方、多様性などを許さず、朱子学一色に染めてしまった罪は、現在の朝鮮半島に厳然と現れている。超自然や来世を語らないので、儒教は現世的ではあるが、逆に「そんなことしたら地獄に落ちるぞ」が通用しないので、悪事への抑止力がなく、悪事がエスカレートする。儒教には来世がないので、「来世での救いもなく」、悪人は永遠に悪人のままとなる。ここからいったん日本を悪人と決めたら、それを永遠に許さないという態度になる。

 

 

 世界には国民のほとんどがキリスト教徒であるとか、イスラム教徒であるという国はたくさんある。なかでもイスラム教は、15回の礼拝とか、禁酒、豚肉食禁止、ラマダンなど、かなり厳しい戒律を設けており、信者はそれに従った生活をしている。しかし人々の考え方、生活の仕方まで、一つの思想に限定し固定してしまった国は、世界で朝鮮半島だけではないか。

 

 

 それが、「慰安婦問題」「徴用工問題」となると、政府も日本と結んだ条約を反故にしてでも、国民の要求に屈してしまう、日本を評価するとどんなに優れた研究論文でも、政府・マスコミ・国民が半狂乱になって「売国奴」の烙印を押し排除してしまう、というような硬直した国民性が端的に表れている。

 

 

 

もう一つ、排他独善性を見ておきたい。党争についてである。

 

 

朝鮮王朝で科挙制度が整備された15世紀頃から、地方の両班層で科挙に合格して官吏となり、中央政界で大きな勢力となったのが士林(知識人の集団を意味する言葉)であった。彼らは士林派と言われ、儒教的な道徳政治の実現を主張し、建国以来の王族や君侯からなる保守派(勲旧派)を批判したため、たびたび弾圧された。15世紀末から16世紀前半にかけて、このような士林派弾圧がたびたび繰り返された。それを士禍という。

 

 

度重なる士禍にもかかわらず、新興勢力である地方両班層を母体とする士林派は存続し、次第に王権を支える基盤となっていった。しかしその一方で、両班はそれぞれ家を大事にして血統を誇り、血縁的な団結を強く守っていたので競争心が強く、中央政界でも権力争いのなかで常に派閥を作って争うようになった。それが党争と言われる争いであり、16世紀末から17世紀末にかけて激しく展開された。

 

 

「朱子学の教義の解釈の違いから東人派と西人派が生まれた。東人派は南人派と北人派に、さらに北人派は大北派と小北派に分裂した。西人派の方は老論派と少論派に分かれ、老論派が僻派と時派となった」という説明を見ただけで、「なんだ、これは?」となってしまう。要はどうでもいいような空理空論を掲げ、不毛の教義論争が続くのである。

 

 

このような学説の争いを掲げながら、実態は派閥による人事と政権の壟断のためであるから敗北は罪を得ての死となる。殺すか殺されるか、言論と権謀術数をもっての陰湿な争いとなったのである。

 

 

体を動かさない、体を使って働くことは賤しいことであると考え、朱子学を極めて聖人になることを目指している両班が、血で血を洗う党争を続けてきた。そして彼らは絶対的権力を持って、「下々の愚かな民衆を教え導いて」きたのが朝鮮王朝の500年の歴史である。

 

 

そのなかでも、先に見た「厳しい身分制度」や「極端な男尊女卑」などを当たり前のこととして社会に定着してきた独善性を、私はとても人間のやることとは思えない強烈な違和感を覚える。

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